青砂ケ浦天主堂(長崎・上五島町)
④信徒による教会づくりに向かって-2
35年前、まだバチカン公会議後の活動が活発に行われていた頃、筆者は信徒使徒職について論文を書きました。その論文の中で「明日の教会の姿」と題して記した箇所を思い起こしました。この度、その章に記した論文に新たな発案を加筆し、改めて信徒使徒職を推進させるいくつかの提言をしたいと思います。尚、原論文は1988年当時の教会の姿をもとに考察したもので、現在すでに改善された点も多々あります。しかし、残念ながら依然として残されている問題も多いことに気づかされました。
さて1549年、キリスト教伝来から第二バチカン公会議の近年に至るまで、日本における聖職者と信徒の関係は、父親と子どもの関係に類似していたと言えるでしょう。つまり、その当時のヨーロッパの諸教会に普及していた様式をそのまま模倣するように、聖職者は権威のもとに信徒を指導していました。こうした状況の中で、組織化された要求など不可能であったこと、またそのようなことは皆無であったとも言えるでしょう。当時の日本の教会では、ヨーロッパでの発展的な段階は、ほとんど見られません。従って、第二バチカン公会議で決議された刷新のための変化は、日本の教会にとって"青天の霹靂"の出来事でした。特に聖職者と信徒の関係に関して、決議された変化を受け入れる関心や情熱も、また日本のカトリック信徒がそれらを要求することも、変化を必要とする意識もないまま、押しつけられたような格好ではなかったでしょうか。その原因は日本の教会の何処にあったのでしょう。また何を改善することによって、変化の必要性を意識化できたのでしょうか。そして、なぜ公会議以降日本の教会は、26年間も沈黙していたのか。これらの点について考えたいと思います。
当時、真っ先に第二バチカン公会議に反応したのは、日本の教会の特徴とも言える当時の宣教者の構成です。大勢の外国人宣教師を抱えた日本の教会は、公会議後、新たな歩みを始めるかに思えましたが、現実は司祭、修道者の中で生じた二極化ではなかったでしょうか。偏見かもしれませんが、大勢いた外国人宣教師の中には、従来通りの教会を望んだ保守派と新たな"社会に開かれた教会"を目指す推進派に別れたのではないでしょうか。事実、第二バチカン公会議以降、世界中で司祭、修道者を辞めた方々が続出していました。また公会議以降、何故か保守派の中で今日も残存する超保守的呪術紛いの運動体です。未だ宣教国である日本において、このような呪術紛いの運動体は、現世御利益を目的とし、かつカルト的思考の様相から司教団に活動することを歓迎されません。確かに、未だ大人になれない日本の小教区にあって、このようなカルト的思考の超保守的運動は、小教区だけでなく教会を分裂させる要素を多分に含んでいます。勿論、そうした運動体であってもマイナス要素ばかりではありません。キリスト教国と呼ばれている海外の小教区においては、このような運動体を必要とする国々も存在しています。何故なら、このような運動体によって信仰が保たれ、同時に人々に救いを運んでいるからです。但し、宣教途上国である日本において、超保守的な運動体の必要性は当面必要とされないでしょう。
現在も日本国内で活動している運動体は、数多く見られます。"心のともしび運動"もその一つです。各々運動体が日本の教会の中で福音宣教する為には、司教団の承諾を必要とします。幸いに"心のともしび運動"は、日本の司教団の基に始まり1994年12月司教団推奨で文科庁へ宗教法人格取得の申請をし、認可されました。その際、司教団より法人名の頭に"カトリック"の名称を頂くことができました。つまり、"心のともしび運動"は日本の教会の中で健全な運動体であるという証拠です。
今回、第二バチカン公会議後遅々として推進できなかった隠れた理由の一つを記しました。次回、主だった遅延している課題を記述します。
心のともしび運動 松村信也