2023年03月のキリスト教の歴史
中ノ浦教会(長崎・上五島町)

明日の教会に向けて

④信徒による教会づくりに向かって-3

 まず、第二バチカン公会議以降、歩みはじめた日本の教会と使徒職の反省点から考えていきます。

 第二バチカン公会議後26年が過ぎた頃、日本の教会は、ようやく公会議の精神に基づき動き始めました。1987年第一回福音宣教推進全国会議(NICE'87)は、その一つのしるしであったと思います。この全国会議の中心課題は「開かれた教会づくり」の3つの柱①日本の社会とともに歩む教会②生活を通して育てられる信仰③福音宣教をする小教区でした。これら3つの課題は、教会造りにおける基本的な課題です。これらが取り上げられたことは、日本の社会に、日本国民の要求に、応えようとする姿勢の現れであったと言ってもよいでしょう。しかし、日本におけるカトリック信徒と呼ばれる人の数は、総人口の僅か0.3%であり、この限られた少数の信徒で、日本の社会に向かって働きかけることの難しさの問題がありました。そこで小教区共同体による組織的な働きが重要になると考えられました。

 また日本でカトリックがあまり普及出来なかったもう一つの原因と考えられるのは、日本古来の宗教に対し、カトリックが何処かバター臭い宗教のようなものを、一般の人々に感じさせていたからではないでしょうか。例えば、①日本人の風俗・習慣から掛け離れたもの ②西欧的教義中心主義 ③孤立した特殊な信徒集団 ④閉鎖的な共同体の意識 ➄第二次大戦後、7年間に及ぶ米軍の統治。その間多くの修道会、宣教会が入植したことです。これらは、寛大に受け入れていこうとする日本人の国民性に何処か親しみを感じさせない悪い印象を与えているように思います。

 日本国民は、昔から培われた共同性や、また知識ある者にも無学な者にも分かりやすい単純な教えを尊ぶといった、すべての人に開かれた共同体的意識を持っています。ところがカトリックには、日本国民の持つ共同体的意識とは異なる、選ばれた特定の人だけの共同体を感じさせるところがあります。勿論、良い印象も多く与えていることも事実です。しかし、一般に人間の心には、悪いことの方が良いこと以上に強く印象として残るのです。おそらく、そうしたことから、日本においてカトリックを信仰としてではなく一種の文化現象としてのみ受け取られてきたということでしょう。今も、教会の中を見るとき、ある旧態依然とした体質(洗礼を受けた者だけが救いの恵みに与かる)があり、「開かれた教会」と言いながら、それはまだ殆んど反映されてないでしょう。

 その問題を作っている背景には次のことが言えるでしょう。それは、カトリック教会の中における聖職者と信徒の関係がいまだに未熟であり、教会の中で今でも何か精神的・物質的な植民地主義が支配しているように思います。例えば、ローマからの指令を果たすことが第一とされ、たとえそれらが信徒あるいは周囲の状況から要請されたものでなくても、聖職者は優位を占める職務や位置を確保した組織変革を行い、そこにごく僅かの信徒を参加させることです。つまり、聖職者中心主義の発想から、聖職者は使徒職を特定の信徒にのみに委ねることによって、ローマに対する聖職者の姿勢を正当化しているだけに過ぎないのです。

 聖職者は、もっと信徒に教会活動における責任を与え、教会の伝統的な活動に積極的な関心を持たせ、小教区の活動に自主的にリーダー役を担わせ、信徒のカリスマを生かせる活動へと方向づけるべきなのです。聖職者が自分の都合と伝統に囚われ、そこで信徒を順守させるため、教会法的な正確さを期して新たな規約を制定しようと計ることではないのです。また、活動へと立ち上がってもいない信徒に対して、法と秩序を押しつけることに腐心しすぎるといった傾向は反省すべきでしょう。教会における信徒の再発見(信徒のカリスマ)は、信徒に教会での活動に責任を持たせることによって、信徒自身により実現されるものであり、聖職者の指導のもとで行われるものではないでしょう。このことを聖職者は理解しておく必要があるでしょう。さもなければ、いつまで経っても信徒の再発見(信徒のカリスマ)は成し得ないでしょう。

 この意味でNICE'Ⅰ、Ⅱ そして近年各教区で開催された教区シノドス、そして来年10月バチカンでのシノドスの開催は、大いに推奨されるべきものであります。願わくはこのシノドス開催が、信徒の側からの要求であったのなら、一層喜ばしいことでした。注意すべき点は、かつてシェガレ師(MEP)の言われたように「NICEでの提言は素晴らしかったが、リーダーと一般信徒の間に溝があり、言葉のレベルが高すぎて、具体的な刷新の多くはスローガンのままに終わってしまった。規模を小さくして、生活に根ざした誰にでも通じる言葉が必要です。宣教は人との関わりを大切にし、喜びを伝えることが大事だと思います」。この度のシノドスの設問に対する意見書は、その意味でよかったのではないかと現在のところ思っています。

 使徒職の目的は、信徒、司祭、修道者であれ、全ての人の救いを目指すものであって、それらは内向きではなく外向きであることです。そのために信徒の使徒職を具体的に分かり易くすることが大切だと思います。

心のともしび運動  松村信也