カトリック山口教会(山口県 山口市)
⑤信徒使徒職の新たな姿勢&現実の障害とその対策−2
さて、従来からの課題とその改善は次の3つが考えられるのではないでしょうか。
①教会のクレリカリスム(Clericalism:聖職者中心主義)からの脱却。
聖職者と信徒の間の隔たりが広がった理由は、少数の聖職者が次第にすべてのカリスマ・奉仕職・祭司職を独占するようになったためでした。それは叙階による司祭職が、他のすべての祭司職を掌握する唯一の典型的なものとして現れ、中世と反宗教改革期の間に起こっています。これが原因で信徒は、教会におけるいかなるカリスマも役割をも全く持たない受動的で力のない民としてしまったのです。
しかし、第二バチカン公会議は、神の民全体の祭司的性格と、その民のうちにある祭司職、カリスマ、奉仕職の多様性を現代のキリスト者に対し注意を促しています。それは聖職者の思い上がり、世間に対する無知からの隔たり、独身制、西洋哲学とスコラ神学によるエリート教育、神学校での温室的な養成などを矯正することから始めなければならないでしょう。現況、ここ2、30年間において数多く改善を実施してきましたが、さらに推進することでより適切で有能な祭司職が、信徒にも聖職者にも開かれることになるでしょう。そして、司祭不足を補うばかりか、教会の公の責任を持つ者と持たない者との間の隔たりを狭めて いくことにも繋がるでしょう。
②指導者層の脱西欧化。
邦人司祭が増えた今日においても、司祭の生活様式、司祭養成制度を見るときいまだ西洋志向を続けているのは、カトリックの日本化だけでなく文化的受肉からも逆行させているように感じさせられます。教会がいまだに外国のものという印象を多くの人々に強く与えているのは、ここにも一つの原因があるのではないでしょうか。邦人司祭は、もともと西欧的な生活様式を持っていたのではありません。司祭の生活と活動の体制自体が、西欧の哲学、文化、生活様式によって徐々に西欧的にされたことに端を発しているのではないでしょうか。
また、日本の教会に対する経済的・物質的援助が、かつて西欧によって支えられていたこと、そして、外国人宣教師の助けを必要としていたことから、西欧に対する迎合性が生活様式の変革を遅延させていたのでしょう。そして、今日においてアジア・南米・アフリカ諸国からの宣教師を迎えていますが、彼らも同様、西欧的様式を好み、それぞれ独自の様式を遵守しています。これらの実態からは、さらに困難さを増幅させているように感じさせられます。それらが原因で聖職者が、西欧化された生活によって信徒や一般人との間に隔たりを作っているならば、司祭と修道者から西欧的な文化と生活様式とを変革する必要性と緊急性とがあるでしょう。
カトリックが日本国民からより一層理解され、抵抗なく受入れられ、違和感なしにくつろぎを与えるものになるには、まず日本文化と生活様式を指導者層の中に取り戻す内側からの改革を始めなければならないでしょう。
③司牧上の諸構造の均等化。
反宗教改革期の教会は、教会の可視的性格と構造とを擁護する試みの中で、その位階的構造を権威の象徴とした誤りを犯してきました。それは教会一致の誤った構造認識でもあり、甘やかされて育った聖職者に独裁的な統一主義感を植え付けることになりました。つまり信徒に対する、威圧的な権威の行使、考え方や決定の押しつけ、盲目的な従順の要求がそれであると考えます。
まずこのような態度を改め、その構造における位階性が、排他的な方法や人々の上に立って監督することではなく、「共に参加し、共に考える」こと。この方法によって聖職者は、信徒のただ中で彼らを励まし、水先案内をする指導、即ち、水平的、同心円的な方法へ変革することが大切なのではないでしょうか。
その指導には、説教、要理教育、研修、黙想など通して行われるカテケージスにおいて、聖職者と信徒が、第二バチカン公会議を通して明らかにされた、教会における信徒の立場と役割に関する教導職の教えを、もう一度正しく理解することが大切になるでしょう。そして聖職者は、このことを決しておざなりにしないよう注意しなければならないと思います。
またその方法は、従来のピラミッド方式ではなく、聖職者であれ信徒であれ、『信徒使徒職に関する教令』を、それぞれの立場と役割の中で、神の意志を共に受入れ認識することなのです。そして、その受容には、私たちが認識した真理を日常生活の中で"共同体的に行う証"が伴わなければならないでしょう。
これらのことを実行していくためには、個人で行うことだけではなく小教区共同体単位で、共に分かち合い実践していくことが一番望ましいでしょう。
そこで次回は、小教区共同体についてどうあるべきかを考えます。
心のともしび運動 松村信也sj