[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]
「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
待降節の初日、イエスを信じる者と信じない者に対して、ご自身のメッセージの受け止め方が異なることを弟子たちに語ります。年間最後の主日と同様、ここでもイエスは、黙示的に今こそ終末の時を間近に迎えた待望の時であることを伝えるのです。しかし、イエスが話す様に神を知らない人と知っている人・あなた方とでは、イエスの話す言葉を正しく認識することができないと言われます。なぜなら信じない人々にとってイエスの言葉は「恐れ」であっても、信じるあなた方にとっては「救いの時」、神の愛に満たされる時の到来なのですと。だから日常生活において「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならない様に注意しなさい」と言われています。この言葉を知らされる時、何か今、私たちに注意を促している様に思いませんか。
昨年から続くコロナ禍で緊急事態宣言、まん延防止等重点措置の発令が続く中、感染防疫のために外食は激減しました。しかし、その反動からか自宅での暴飲暴食、テレワーク、リモート談話と従来とは異なる不規則な生活が続いた結果、健康状態にイエロー・カードを貰った人が、少なくないと聞いています。順風満帆な時には、誰でもイエスのみ言葉を真摯に理解し、その様に努めようと努力します。しかし、想定外の不規則な日が続くと、人は正常な心のバランスを崩し、異常な行動をとることが、コロナ感染による異常な生活で体験され、理解されたと思います。この様に流されやすい人間の弱さ、儚さ、愚かさに対してイエスは、今日のみ言葉を使って、忠告されているのではないでしょうか。
"主の日が近づいている今、心が鈍くなる様なことを避けなさい。その日、その時は誰も知りません。気が付いた時は、もう遅かった。ではなくいつでも、どんな時にでも主のみ前に喜んで立つことができる様に、準備しましょう"と。
「いつも目を覚まして祈りなさい」とは、四六時中祈ることではありません。仮に字面通り実行したなら、数日で体調を崩すでしょう。このイエスの言葉は、祈る時は沈思し、ご自身の中に住まわれる神のみ旨に心の眼を向け、耳を傾けなさい。只ボ〜ッと、夢の中で祈るのではなく、み言葉の奥に眼を向けなさい。その時、あなた自身のこれまでの体験した全てをそのみ言葉に重ねて観なさい。
四六時中祈る祈りとは、そのことではないでしょうか。またイエスの言われる"目を覚ます"とは、自我に囚われた祈りではなく、自我を乗り越え自分の全てを主に委ねた祈りだと思います。だから目を覚ましていないと祈りはできないのです。さあ、あなたも"祈る祈り"を始めませんか。
参考:(第一朗読:エレミヤの預言33・14〜16)・(第二朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙)
イエスは捕えられ詰問され、そのうえ拷問まで引き受けた。挙げ句の果て、捕縛者側は、責任を回避するため、ローマ総督ピラトの元へイエスを護送した。引取ったピラトも正直、迷惑千万であっただろう。その彼の気持ちが福音から窺えます「お前がユダヤ人の王?なのか」。イエスとの対話では、ピラトのローマ帝国総督としての受け答えというより、ユダヤを統治しているトップとして、ユダヤ人の起こした面倒な問題に関わる一仲裁者としての有り様です。何故なら、ピラトにとってローマ帝国に対して危害を及ぼす様なこと以外何ら「どうでもいいこと、面倒なことに関わりたくない」からです。むしろ彼はイエスに出会って、ユダヤ人の言うような反逆者に見えなかった。少し変人に思えるが、イエスを罪人とは思えない、またユダヤ人の宣告する処刑に関わりたくないというピラトの思いを感じさせる対話です。
残念なことは、ピラトには理解できなかったイエスの語る「真理」です。挙げ句の果てピラトは、イエスに「あんたの言っている真理とは何か」と吐き捨て、その場を立ち去ったことです。イエスと価値観の異なる世界にいるピラトには、理解不可能であった。しかし、ピラトとの遣り取りにおいてイエスは、丁寧に大切な言葉を語り続けています。「私の国は、この世には属していない」「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。勿論ピラトにイエスの言葉は、理解できません。実はここにキリスト者とは何者か、どの様な人を指して言うのか。その本質が暗示されていると思います。
ペトロの手紙に記述される様にキリスト者は、「真理を受け入れ、魂を清め、偽りのない兄弟愛を受け入れた人のことであり、真理を知った人のことである」と。イエスが弟子たちに生涯にわたって伝えたことは、愛の戒めに生きるということでした。それはただ闇雲に真理を頭で認識することだけでなく、その真理を生活の中で生きることを指しています。またそれが可能になるのは、真理の霊がその人のうちに働くからだと言われます。イエスがこの世に来られたのは、この真理を証するためでありました。真理は正しい認識というだけではなく、信頼することのできる確かな事実であり、人が生きていく上で最も大切な道標であることをイエスは、伝えたかったのです。
私たちもイエスの伝えた愛の戒めである真理に生きることができます様に。
今日の福音は、マルコ福音の「黙示録」と言われる終末予言からなっています。典礼暦B年の最後の主日、これ迄主日に読まれたマルコ福音書も今日で終わります。そこで今日は「終末」にスポットが当てられています。一般的に終末とは、世の終わりとか破滅、破壊といった否定的、消極的な意味に解釈されています。
しかし、今日の福音では、世の終わり、苦しみ、混乱の時ではなく、救いの時の訪れであると言われます。確かに、福音書の中に「太陽は暗くなり・・・」と続くイザヤ書の引用からは、終末を予言している様です。しかし、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲にのって・・・」とダニエル書の引用からは、明らかに悪い終末のイメージではなく、救い主の到来を表現しています。「彼によって選ばれた人々」、その人々とは、イエスの目の前にいる弟子たちであり、彼らにイエスが直接話されているのです。"あなた方の身の上にはこれから先、想定外のことが起こるでしょう。しかし、想定外の理不尽な苦しみ、迫害に耐えて、私が教えた「神のみ言葉」を守り続ける人々には、必ず報いがありますよ"と言われます。
また「いちじくの木」から学びなさいとは、いちじくの木は主に地中海地域において生息する果物の木ですが、この木は落葉樹であり、冬になるとすっかり葉が落ち、その木の姿はまるで死んだ木のように見えます。しかし、その死んでしまったような木が春になると芽を出し、夏になると大きな葉をつけ、沢山のいちじくの実をつけるのです。このようにイスラエル地方では、大自然の様々な"しるし・兆候"によって、新たな時代の"はじまり"と診ています。今日の福音は、"いちじくの木"から「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と予告します。しかし、"気をつけていないと見過ごしますよ。いつでも注意していなさいよ"と加えて教えます。何故なら、主の日は突然やって来るからです。"神の国が近づいているとか、主が近くにおられる"という言葉は、"実現するまで決して滅ばない"という、あなた方への希望のメッセージだからなのです。
さて2年近くも続くコロナ禍での生活、世界中の誰も体験しなかったこの生活から私たち人類は、何を思い考え、何に気づき、何を学んだのだろう・・・。ご自身に問いかけてみませんか。
{因みに"いちじく"を漢字で「無花果」と書き、"花のない木"と表記しますが、生物学的に花は実の中にあって、その実の中にある粒々が花の蕾なのです。その蕾が弾けて花となり、花には雄しべと、雌しべが確認できます。}イエスがこの世に来てくださったのは、私たちの罪を赦し、贖う為だけでなく、永遠の命に導く為に来られたのです。それが約束されているから、キリスト者は喜んで、人としてこの世で成すべきイエスの教えを実践します。またそうすることで、安心して今を前向きに生きることができるのです。たとえ、難しい問題に遭遇しても、神への信頼によってその困難に真正面から立ち向かうことのできる勇気が、与えられることを信じているからです。しかし、どんな時でも決して謙虚さを忘れてはならないことも教えられています。
さて今日の福音で"貧しいやもめ"が賽銭箱にレプトン銅貨二枚を躊躇することなく入れました。お金持ちの賽銭額と比較すれば、ほんの僅かな金額です。しかし、イエスが観ておられたのは、お金の額よりも、やもめの心をご覧になられたのです。今も昔も人が生きる為には、み言葉も必要ですが、食べるための食料を購入するある程度のお金も必要です。しかし、やもめは必要とする生活費全てを賽銭箱に入れたのです。もし誰かがその事実を知っていたら、どうでしょうか。"貧しいやもめ"の生活費、それは命を繋ぐ生きる糧であり、その全てを捧げたのです。全てを賭けたやもめの"勇姿"、さらに誰にも知られることなく全てを捧げる"謙遜な姿"をイエスは、凝視されていたのです。
一方、対照的な律法学者の姿です。この姿、何処か見慣れていませんか。なぜか身近に感じる方も少なくないと思います。その身近さを感じる我が身に嫌悪感を覚えませんか。"やもめ"の姿に感動し、尊敬さえ感じる私、私たちですが、現実はどうでしょうか。聖書の中で、やもめの真の姿がイエスによって知らされますが、その姿を知っていた人は今も昔も皆無です。現代版の律法学者である私、私たちの目には、やもめの姿が見えない、否、見ようとしないのではないでしょうか。声を大に「献金を、義援金を」と他人に呼びかけながら、何処か見せかけ、思わせぶり、口先だけである自分に気づかされます。
コロナ禍で大勢の方々が、気づかされたコロナ貧困、コロナ差別、そして日本社会の脆弱な構造現実、格差社会の実態の露見です。つまり、日本社会は、今日の福音に登場した律法学者に似た人が少なくないということです。古今東西、いつの世も人の心は、それ程変わっていません。いつまでも観られる自分に生きるのではなく、勇気を出して「ありのままの自分」で神に生かされる生き方を学びましょう。