イエスがこの世に来てくださったのは、私たちの罪を赦し、贖う為だけでなく、永遠の命に導く為に来られたのです。それが約束されているから、キリスト者は喜んで、人としてこの世で成すべきイエスの教えを実践します。またそうすることで、安心して今を前向きに生きることができるのです。たとえ、難しい問題に遭遇しても、神への信頼によってその困難に真正面から立ち向かうことのできる勇気が、与えられることを信じているからです。しかし、どんな時でも決して謙虚さを忘れてはならないことも教えられています。
さて今日の福音で"貧しいやもめ"が賽銭箱にレプトン銅貨二枚を躊躇することなく入れました。お金持ちの賽銭額と比較すれば、ほんの僅かな金額です。しかし、イエスが観ておられたのは、お金の額よりも、やもめの心をご覧になられたのです。今も昔も人が生きる為には、み言葉も必要ですが、食べるための食料を購入するある程度のお金も必要です。しかし、やもめは必要とする生活費全てを賽銭箱に入れたのです。もし誰かがその事実を知っていたら、どうでしょうか。"貧しいやもめ"の生活費、それは命を繋ぐ生きる糧であり、その全てを捧げたのです。全てを賭けたやもめの"勇姿"、さらに誰にも知られることなく全てを捧げる"謙遜な姿"をイエスは、凝視されていたのです。
一方、対照的な律法学者の姿です。この姿、何処か見慣れていませんか。なぜか身近に感じる方も少なくないと思います。その身近さを感じる我が身に嫌悪感を覚えませんか。"やもめ"の姿に感動し、尊敬さえ感じる私、私たちですが、現実はどうでしょうか。聖書の中で、やもめの真の姿がイエスによって知らされますが、その姿を知っていた人は今も昔も皆無です。現代版の律法学者である私、私たちの目には、やもめの姿が見えない、否、見ようとしないのではないでしょうか。声を大に「献金を、義援金を」と他人に呼びかけながら、何処か見せかけ、思わせぶり、口先だけである自分に気づかされます。
コロナ禍で大勢の方々が、気づかされたコロナ貧困、コロナ差別、そして日本社会の脆弱な構造現実、格差社会の実態の露見です。つまり、日本社会は、今日の福音に登場した律法学者に似た人が少なくないということです。古今東西、いつの世も人の心は、それ程変わっていません。いつまでも観られる自分に生きるのではなく、勇気を出して「ありのままの自分」で神に生かされる生き方を学びましょう。