イエスは捕えられ詰問され、そのうえ拷問まで引き受けた。挙げ句の果て、捕縛者側は、責任を回避するため、ローマ総督ピラトの元へイエスを護送した。引取ったピラトも正直、迷惑千万であっただろう。その彼の気持ちが福音から窺えます「お前がユダヤ人の王?なのか」。イエスとの対話では、ピラトのローマ帝国総督としての受け答えというより、ユダヤを統治しているトップとして、ユダヤ人の起こした面倒な問題に関わる一仲裁者としての有り様です。何故なら、ピラトにとってローマ帝国に対して危害を及ぼす様なこと以外何ら「どうでもいいこと、面倒なことに関わりたくない」からです。むしろ彼はイエスに出会って、ユダヤ人の言うような反逆者に見えなかった。少し変人に思えるが、イエスを罪人とは思えない、またユダヤ人の宣告する処刑に関わりたくないというピラトの思いを感じさせる対話です。
残念なことは、ピラトには理解できなかったイエスの語る「真理」です。挙げ句の果てピラトは、イエスに「あんたの言っている真理とは何か」と吐き捨て、その場を立ち去ったことです。イエスと価値観の異なる世界にいるピラトには、理解不可能であった。しかし、ピラトとの遣り取りにおいてイエスは、丁寧に大切な言葉を語り続けています。「私の国は、この世には属していない」「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。勿論ピラトにイエスの言葉は、理解できません。実はここにキリスト者とは何者か、どの様な人を指して言うのか。その本質が暗示されていると思います。
ペトロの手紙に記述される様にキリスト者は、「真理を受け入れ、魂を清め、偽りのない兄弟愛を受け入れた人のことであり、真理を知った人のことである」と。イエスが弟子たちに生涯にわたって伝えたことは、愛の戒めに生きるということでした。それはただ闇雲に真理を頭で認識することだけでなく、その真理を生活の中で生きることを指しています。またそれが可能になるのは、真理の霊がその人のうちに働くからだと言われます。イエスがこの世に来られたのは、この真理を証するためでありました。真理は正しい認識というだけではなく、信頼することのできる確かな事実であり、人が生きていく上で最も大切な道標であることをイエスは、伝えたかったのです。
私たちもイエスの伝えた愛の戒めである真理に生きることができます様に。