2021年01月31日の聖書の言葉

律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった(マルコ1・22)

弟子を召出した後、早速、イエスは安息日に会堂で教え始めた。人々は非常に驚いたとあるように、これまでの律法学者のような教え方ではなかったようです。権威ある教えとは、悪霊を追い出すほどの、力のある強烈な教えだったのだろうか。確かにイエスは、悪霊に向かって「黙れ」と言われています。しかし宣教の初めから、そのような暴言を吐かれたのだろうか。当時の社会がそれほど無秩序で乱れていたということなのか。いろんなことが想像されるこの箇所です。そんな中でイエスの悪霊に対する毅然とした姿勢からは、権威に屈服したり、強者に媚を売ったりする優柔不断な性格は見当たりません。つまり、俗人に見られる私利私欲、唯我独尊、独断と偏見、迎合主義、権力主義、上昇志向のようなものを優先する人ではなかった。むしろ、全く正反対のものを弟子たちは、イエスから観たのです。だから"すぐに捨てて"従うことができたのでしょう。出会い、そして魅了された。魅力の魅とは「得体の知れない力で人を惑わす」という意味を持っています。しかしイエスの場合、得体の知れないものではなく、ご自身をはっきりと己が認めた者に表されるのです。「来なさい」と呼びかけ、呼んだ者と共に留まられるのです。得体が知れないどころか、弟子はイエスがどんな方であるかを、はっきりと自分の目で見て確認したのです。もしかして、あなたはイエスを疑っていませんか。


2021年01月24日の聖書の言葉

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1・15)

このイエスの言葉に真っ先に従ったのが、シモンとシモンの兄弟アンデレでした。彼らは漁師で、湖で仕事をしていた時に、イエスと出会ったというより、イエスから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師に」と声を掛けられて従った。何故その呼び掛けだけで従うことができたのか。しかも"すぐに網を捨てて"と。当然、これらの表現は、それ程イエスの呼び掛けた声に威厳があったということでしょう。あるいは彼らは事前にイエスの存在を知っていた。そのイエスにやっと出会った。だから喜んで従った。しかし、後者よりも前者の方がこの箇所では、優位であろう。とすると"どうして"という疑問が残る。またゼベダイの子ヤコブもその兄弟ヨハネも同じように従っていく。つまり、イエスの最初の言葉を「聞いて」、直接出会って目の当たりに「見て」、納得してイエスに従う「ついていく・彼に留まる」とヨハネ福音書にもあった信仰のプロセスが、召出しのプロセスにも繋がっていくことに気づかされる。「信仰イコール召出」、「信じるイコール従う」ということである。あなたは今も信じていますか、イエスのみ言葉が心に響いていますか。


2021年01月17日の聖書の言葉

来なさい。そうすれば分かる(ヨハネ1・39)

今日の福音には、信仰の一つのパターンが見られます。まずヨハネの弟子たちは、イエスが歩いておられるのを見たヨハネから「見よ、神の子羊だ」と聞いて、イエスを追いかけていく。そしてイエスから「来なさい」と言われてついていき、彼の家に留まった。そこで彼らが見たものは、正真正銘のイエスの姿であったのです。それは神性のイエスの姿だったかもしれないが、むしろ人性のイエスの姿ではなかったでしょうか。洗礼者ヨハネよりも謙遜で包容力があり、柔和で威厳のある人格を体感させられた。その体験によってヨハネの弟子たちは、イエスに対し神の子としての尊厳さを確信したのでしょう。そこで弟子の一人は、その確信ゆえに兄弟シモンもイエスのところに連れて来て、同じ体験をさせ、彼も同様にイエスの弟子に招き入れられたのでした。このようなイエスの招き、何か特別なような気もするが、どこか自然の流れのようでもあります。そんな流れの中で人知れず洗礼者ヨハネの存在もこの場面から消え去っていきます。イエスと弟子たち、そして彼らがこれからイエスを中心に神の国、福音を宣べ伝えていくイエスの働き手として、さらに福音を具体的に表現する道具のような役割を担うのです。福音とは、先ず「聞くことから始まる」というパウロの言葉を思い出します。まさに聞いたことを自分の目で見て、留まって、確信する。そして確信したことを実践する。つまり、確信したことを隣人に伝えて、招き・導き、留まり確信する。この繰り返しこそ福音宣教ではないでしょうか。


2021年01月10日の聖書の言葉

主の洗礼 あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(マルコ1・11)

神から遣わされた先駆者であるヨハネ、彼の使命は"主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにする"ことでした。それは次に来るイエスを楽にさせるとか、あらかじめ当時の人々に予告するという計画ではありません。イエスよりも先に洗礼者ヨハネが送られたその理由は、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。・・・主のために用意する」(ルカ1:14-17)為でした。ヨハネの水の洗礼とイエスの聖霊の洗礼の違いは何か。ヨハネの洗礼は「罪の悔い改め」であるのに対して、イエスの洗礼はパウロが書簡の中で記すように「イエスと結ばれる」ためでした。つまり、父である神の子となり、その人の中にイエスが共にいて下さるということです。その為に神殿となる人の身体から先ず、罪の汚れを取り去ることが大切でした。さらに洗礼者ヨハネは、来る方がどのような方であるかを、ご自身の言葉と姿勢によって証されました。そのヨハネの先駆者としての使命は、天からの声によってイエスが何者であるかを証することでした。イエスの洗礼をお祝いする今日、キリスト者にとって戴いた受洗の恵みを改めて回顧し、神の子として、またいつも共にいてくださるイエス様のことを意識させて戴く一日でありたいです。


2021年01月03日の聖書の言葉

主の公現 学者たちは・・・家に入ってみると、幼子は母と共におられた(マタイ2・1~12)

ヘロデ王と東方の博士たちの話で始まる今日の福音では、ヘロデ王を通して知らされる人間の醜さ、傲慢さを伝えています。その原因を聖書は、私たち人間が、私たちを創造した神に背を向け、遠ざかっているからだと告げているのです。自己中心、争い、妬み、偽善、不信等など、如何ともし難い人間の醜さ、そんな罪の暗闇の中に光を照らしてくださる方がお生まれになった。このどうしようもない人間を罪から救うために、生まれてくださったのです。そのお方を確認するため、東方から星に導かれて博士たちは、ベトレヘムまでやって来たのです。お生まれになった幼子は、立派な宮殿どころか、民宿、宿屋でもなかった。夜空の星をじかに見る露天でお生まれになり、マリアとヨゼフの見守る飼い葉桶に寝かされていると知らされたのです。これこそイエスの道、神から授かった願いであった。仕えられるためではなく、仕えるために来られた幼子は、将来有望で立派なお金持ちを褒め称えるためでなく、悩み苦しんでいる貧しい小さな人々、社会から弾かれている人々を救うために来られたのです。そのことを直接感じ取った東方の博士たちは、天使の導きでヘロデのもとへは戻らず東方へ帰って行きました。つまり、博士たちは罪の暗闇の道ではなく、神に立ち返り、神の御心に従う新たな道へと帰って行ったのです。