今日の福音には、信仰の一つのパターンが見られます。まずヨハネの弟子たちは、イエスが歩いておられるのを見たヨハネから「見よ、神の子羊だ」と聞いて、イエスを追いかけていく。そしてイエスから「来なさい」と言われてついていき、彼の家に留まった。そこで彼らが見たものは、正真正銘のイエスの姿であったのです。それは神性のイエスの姿だったかもしれないが、むしろ人性のイエスの姿ではなかったでしょうか。洗礼者ヨハネよりも謙遜で包容力があり、柔和で威厳のある人格を体感させられた。その体験によってヨハネの弟子たちは、イエスに対し神の子としての尊厳さを確信したのでしょう。そこで弟子の一人は、その確信ゆえに兄弟シモンもイエスのところに連れて来て、同じ体験をさせ、彼も同様にイエスの弟子に招き入れられたのでした。このようなイエスの招き、何か特別なような気もするが、どこか自然の流れのようでもあります。そんな流れの中で人知れず洗礼者ヨハネの存在もこの場面から消え去っていきます。イエスと弟子たち、そして彼らがこれからイエスを中心に神の国、福音を宣べ伝えていくイエスの働き手として、さらに福音を具体的に表現する道具のような役割を担うのです。福音とは、先ず「聞くことから始まる」というパウロの言葉を思い出します。まさに聞いたことを自分の目で見て、留まって、確信する。そして確信したことを実践する。つまり、確信したことを隣人に伝えて、招き・導き、留まり確信する。この繰り返しこそ福音宣教ではないでしょうか。