そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
一人の律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一に大切ですか?」とイエスに問いました。イエスは旧約聖書の「申命記」と「レビ記」から一つずつ掟を挙げて、「この二つに、まさる掟はほかにない」と応えられました。
「申命記」(申:再び、命:律法)は、約束の地に到着する直前にモーセが遺した言葉であり、ユダヤ人が毎日の祈りの中で唱える信仰告白の言葉です。「聞け、イスラエルよ(=シェマー、イスラエル)」から始まる祈りで、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6章4-5節)と続きます。「レビ記」には「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(19章18節)と記されています。
マタイ福音書では「第二も、これと同じように重要である」(22章39節)と記されています。「同じように」のギリシア語原文は「ホモイア=似ている」という単語が使われています。したがって、「重要度が似ている」という解釈以外に、「二つの掟の内容が似ている」と捉えることもできるのです。
つまり「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことが同じことだと考えることができるのではないでしょうか。
そう考えると「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5・14)や「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」(ヤコブ2・8)がしっくりきますし、最後の晩餐の席でイエスが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)と弟子たちに話されたことが腑に落ちるのではないでしょうか。
目に見えない神を愛することが難しく感じられるときは、目に見える隣人を愛することで、すべてが全うされることを教えてくださっているのです。
参考:(第一朗読:申命記6・2-6)・(第二朗読:ヘブライ7・23-28)