そのとき、弟子たちの多くの者はイエスの話を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば...。命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
「あなたがたも離れていきたいか?」
イエスのこの問いかけを受け止めたいと思います。
大勢の人々や弟子たちまでもが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って離れてしまったと聖書は伝えています。私たちはペトロのように「主よ、だれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」とお答えすることができるのでしょうか?
当時多くのユダヤ人は、神から与えられた「律法」を守ることが何よりも大切なことであり、様々な理由から律法を守ることのできない人々は罪人とされ、神の救いの対象から外れていると考えていました。彼らは、自分たちこそが神の前に正しい生活を送っているという思い込みが分断を生んでいることに気付きませんでした。
私たちが、「ミサに与り敬虔に祈っているから、神から認められているだろう」と思っているのだとすれば、彼らと変わらないのではないでしょうか? イエスは、自らを善人だと思い込んでいるユダヤの人々に対して、神の愛の教えの原点に立ち返るよう諭されて、神の深い慈しみを説いてくださいました。
祈りましょう。
すべての人の救いのために来られたイエスの御言葉を、そのまま受け入れる素直で謙虚な心を持つことができますように。
立派な信仰告白ができたペトロでしたが、後に「そんな人は知らない」と三度までイエスを否定してしまいます(マタイ26・69-75)。弱い私たちですが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。......わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである(同9・12-13)」とのイエスの愛の呼びかけに、心を開いて生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:ヨシュア24・1-2a、15-17、18b)・(第二朗読:エフェソ5・21-32)