そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
本日の福音書は、ヨハネ福音書13章から続く、イエスの教えの集大成ともいえる部分です。
イエスは弟子たちの足を洗い、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい掟(戒め)を与えてくださいました。その後イエスは捕らえられ、十字架刑に処せられることになりました。従ってこの戒めは、イエスの遺言となったのです。
では「互いに愛し合う」とは、どうすればよいのでしょうか? 「愛」と「恋」が違うことはわかりやすいことかもしれません。「恋」は「感情」ですが、「愛」は感情ではなく、「意志」だからです。
イエスが生涯を通して示してくださった「愛」について、わかりやすく説いてくださった本田哲郎神父様(フランシスコ会)の言葉を紹介します。
聖書に出てくる「愛」と訳しているギリシア語は「アガペー」です。アガペーとは「大切にする」ということです。好きになれない相手かもしれない、でも大切にしなさい。愛情を感じない相手であるかもしれない。でも大切にしなさい。自分自身が大切なように、隣人を大切にしよう。愛情が薄れ、友情が失われたとしても、その人をその人として大切にしようとすること、これこそ人間にとって大事なことなのだ、と。・・・相手をいつも好きになれるとはかぎらないし、それは気にしなくてもいいのです。大切にするということは一所懸命努力することが大事。そういうことなのです。
本田哲郎 著 『釜ヶ崎と福音』 岩波書店
祈りましょう。
私たちが感情に任せて生きるのではなく、好きではない人を大切にすることができますように。
十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と祈られたキリストを手本として、生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:使徒言行録10・25-26、34-35、44-48)・(第二朗読:①ヨハネ4・7-10)