そのとき、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
イエスが、思い皮膚病を患っている人を癒される場面です。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。(マルコ1・41-42)
当時のユダヤ人社会において、重い皮膚病は罪の結果であり、その人に触れた人も汚れると考えられていました。律法を度外視して、病に苦しむ人に直接触れて癒してくださったイエスの御心を黙想したいと思います。
私たちが逆境にあるとき、共にいてくださり、共に苦しんでくださるイエス様に気づくことができますように。フランシスコ教皇様の「私たちの苦しみはイエスが触れてくださるきっかけになります」*というメッセージを心に刻んで、主を信頼して、勇気を持って生きてゆくことができますように。 アーメン。
*2015年2月15日、サンピエトロ広場にて
参考:(第一朗読:創世記3・16-19)・(第二朗読:1コリント10・31-11・1)