そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壼に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
当時のユダヤ人の婚宴は夕方に始まるものだったそうです。花嫁は、花婿が迎えに来るのを自宅待機しています。花婿が花嫁邸に到着すると、まず花嫁の両親、家族と会談を行い、経済面や必要なことを話し合います。その後、花婿は花嫁を伴って宴会場へ向かうのです。宴会場への到着が遅い時刻になることも珍しいことではなかったのかもしれません。
たとえ話では真夜中になったとあります。10人のおとめは全員眠っていたのですから、いつ来るかわからないので「目を覚ましていなさい」が教訓ではないことがわかります。いつ来てもよいように「準備をしておきなさい」という教えなのです。
「花婿の到着が予定より遅かった」ことは、当時のキリスト者の思いを反映したものでもありました。最後の晩餐の席でイエスは、「(私の父の家に)行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14・3)と弟子たちに約束されました。
激しい迫害を受け続けたキリスト者たちは、イエスの再臨が間もなく来るだろうと期待し、その日を待ち望んでいました。マタイ福音書が書かれた西暦60年ごろはそのような時代でした。「花婿(キリスト)の到着が遅れている。でも花婿は必ず来る。だから備えをして待っていよう!」との、福音記者マタイからの励ましのメッセージでもあったのです。
※キーワード:油断大敵──勝負はすでに決まっていた?
油断:多くの仏典に記述があります。例えば、比叡山延暦寺の灯りは、開祖最澄の頃から消さないよう油を足し続けており、この油が断たれることがないよう戒めたことに由来しています。
「このたとえで、十人のおとめたちを左右したのは、油の用意をしていたか否かということでした。祝宴に入れられる者と入れられない者とは、真夜中に花婿が到着した時に決まったのですが、実は、このおとめたちが家を出た時、油を余分に持っていたかどうかで、すでに勝負は決まっていたのです。
明かりは目につきますが、そのなかに入れる油は目立ちません。しかしその油が尽きれば、明かりは消えてしまうでしょうし、油がなければ、明かりはいざという時に役に立たないのです。
「油断大敵」ということわざがあります。油をたやさない、注意を怠らないということは、わたしたちの日常生活で基本的に大切なことです。
そのうちに人生の備えをしよう、もう少し年を取ったら信仰の問題を考えよう、とする人が多くいます。心の問題、生き方の問題を後回しにして、目前のことに追われることが多いのです。」
船本弘毅『イエスの譬話』(河出書房新社)より
賢い五人のおとめが油を分けてあげないのは不親切ではないか?と考える方もおられるのかもしれません。しかし、自らが日々取り組み、時間をかけて習得したものは、容易に他の人に分け与えることができないことが多いのではないでしょうか。
参考:(第一朗読:知恵6・12-16)・(第二朗読:一テサロニケ4・13-18)