そのとき、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「モーセの座」とは、神の掟である律法を教える権威が与えられていることを指す言葉です。「聖書の朗読」や「律法の教えを説く」ことに加えて、人々のトラブルに対して、律法の細則を用いて裁きを下す「裁判官」の役割も与えられていました。イエスが、律法学者たちの目の前で「彼らが言うことは、全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない」と発言されたと考えると、皮肉のこもった、そして意味深いお言葉ではないでしょうか。
しかし実際のイエスの行動を見ると、彼らが言うことを「全て守る」ことはなさっていません。
(例)「ある安息日、......イエスの前に水腫を患っている人がいた。......イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」(ルカ14・1-4)
律法の613もある掟を守ることに固執するユダヤ教の指導者たちに対して、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」(マタイ23・23)と批判されました。「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」(同23・4)行為は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(同11・28)と言われたイエスの姿勢とは相容れないものです。
一方で、最も重要な掟を巡り適切な答えを述べた律法学者には「あなたは、神の国から遠くない」(マルコ12・34)と賛辞を送っています。
イエスと共にいて、イエスの言動を間近に体験してきた弟子たちの行動を見ると、イエスの姿勢への不理解がうかがえます。例えば、使徒ヤコブとヨハネの母親が「王座にお着きになるとき、二人の息子をあなたの右と左に座らせてください」と願ったこと。そしてこれを聞いたほかの十人の弟子が腹を立てたこと(マタイ20・20-24)に対しても、本日の福音の「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」(同・11)の御言葉が向けられているのではないでしょうか。
併せて、イエスの批判の言葉は、現代を生きる私たちへの警告として受け止めなければなりません。
「言うだけで実行しない」「人に重荷を負わせて自分は手を貸そうとしない」「行いは人に見せるため? 褒められるため?」など、イエスの厳しい叱責の言葉を心に留めて、自らの生活を振り返る機会として活かしていきたいと願っています。
参考:(第一朗読:マラキ1・14b-2・2b、8-10)・(第二朗読:一テサロニケ2・7b-9、13)