そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
本日の福音書は、ご受難前日の「最後の晩餐」の席で、イエスが弟子たちに話された「別れの説教」の冒頭部分です。弟子たちは、3年にわたってイエスと行動を共にすることが許されました。しかし今日の朗読の直前の箇所で「わたしが行く所にあなた方は来ることができない」と言われて戸惑いを隠せない弟子たちに向けて、イエスは語りかけてくださったのです。
*キーワード1:心を騒がせるな
このワードは、ヨハネ福音書14章に2回(1節、27節)登場します。先を見通すことができず、不安に襲われて心が動揺しているとき、自分の力に頼るだけでは解決することが困難です。イエスは「心を騒がせるな」に続いて「神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい」と話されました。神に信頼し、お委ねすることによって、自分の力では解決できないことでも、神の知恵と力によって乗り越えることができることを諭し、励ましてくださったのです。
*キーワード2:場所を用意しに行く
「場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」
「イエスがどこか手の届かない所に行ってしまう、どうしよう」。動揺する弟子たちは、このイエスのみ言葉によって、大きな慰めと希望が与えられました。私たちが今いる所は通過点に過ぎず、イエスが場所(天国)を用意してくださった後に迎えに来てくださり、その場所で、イエスと共に過ごすことができるという力強い約束をしてくださいました。
*キーワード3:道
教皇フランシスコは「わたしは道である」(6節)の聖句について、2020年5月10日、正午の祈りに先立つ説教の中で次のように話されました。
「キリスト者として、それぞれが自問しましょう。『私はどの道を行くのか』。世俗の道や、自己主張の道や、利己的な権力の道など、天国につながらない道もあります。そして、謙遜な愛や、祈り、柔和、信頼、奉仕などの道に代表されるイエスの道があります。自分が主役の道ではなく、人生の中でイエスを主役とする道です。『イエスよ、私のこの選択をどう思いますか。この状況で、これらの人々と共にいて、あなたならどうしますか』と毎日尋ねながら進む道です。イエスに天国への道を示していただくのはよいことです」
「道」は英語で"the way"という単語が使われています。「道」には、"road"道路も"street"街路もありますが、"way"は「道路」の他に、「方法」や「方向」という意味でも使われる単語です。
イエスが用意してくださる場所に到達するために、何を大切にし、何を手放すのか、日々の生活の中で、正しい方法を選択することができますように。そして、用意された場所を目指して、正しい方向に歩んでいくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:使徒言行録6・1-7)・(第二朗読:一ペトロ2・4-9)