2023年04月08日の聖書の言葉

4月9日 復活の主日 ヨハネ20:1-9

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音はイエスの復活後、最初の出現物語です。ここにも不思議な記述がいくつも見られます。

 先ず「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに・・・」と記された箇所から、イエスが語った「3日目に復活する・・・」(マタイ16:21)、「3日で建て直す」(ヨハネ2:19)と語ったこの3日目とは、いつから起算するのでしょうか。聖書学者の間では、イエスの死から復活までの記述が、数え年における年数や日数の数え方のように、イエスが十字架にかけられた金曜日を「第1日目」として、その次の土曜日を「第2日目」または「2日後」と数え、さらにその次の日に復活した日、日曜日を「第3日目」または「3日後」と数えることで、イエスが十字架上の死から3日目あるいは3日後に復活したという聖書の解釈を成り立たせているようです。

 次に、朝早く墓に駆けつけたのは、マグダラのマリアであったことです。なぜ12使徒ではなかったのでしょうか。マリアは墓でイエスのご遺体を発見できなかったのでペトロともう一人の弟子のところへ戻ったとあります。他の弟子たちは何処へ行ったのでしょうか。彼らはイエスが十字架に架けられた時、恐ろしくなりどこかに身を隠したのでしょう。女性の強さ、男性の弱さからという比較ではなく、イエスの次は"自分たちが殺される番だと"考えたからでしょう。

 そしてもう一つの不思議は、弟子たちが墓にきて「墓の中に入って来て、見て、信じた」とあります。そのあと「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と記されています。復活することを理解していなかった弟子が、何をどうして「墓の中に入って来て、見て、信じた」のでしょうか。弟子たちは自分の目で見て確認したから"信じた"にもかかわらず、"聖書の言葉を理解できなかったのか"不思議な表現です。ここに今日の福音の大切なメッセージが込められていると思います。
 聖書学者の雨宮師は、次のように言われます。{イエスは十字架上で死にましたが、弟子たちはイエスとの関わりを終わらせたくなかった。しかし、その関わり方は未来に開かれたものではなく、過去にこだわる後ろ向きのものなのです。「墓」は弟子たちにとって、イエスとの思い出の中に生きようとする"しるし"であり、無くてはならないものなのです。そこで彼らが墓の中で見たものは、事物や状況ではなく、出来事が指し示す意味です。"あ〜ぁ、大切なものを失った。これは一大事だ"。つまり、物事を見て、観察しても、その意味を理解できるとは限らないのです。表面的な事物の背後を見る目が、その出来事の本当の意味を明らかにするのです。もう一人の弟子は、自分に向けられたイエスの愛に気づき、その愛に支えられて、イエスの復活を信じた最初の者となったと言われます。「墓」に走って行った弟子たちの行動、イエスを求めて墓に行くのは、イエスの復活を理解していないからだと言われます。なぜならイエスの復活は、人間の理解を、想像を遙かに超えた出来事だからです}と。

 確かに、復活の出来事を信じることは容易ではありません。だからイエスは、弟子たちに幾度もご出現された理由がここにあるのかもしれません。
 キリスト教は"復活信仰"と言われます。それがここに認められているのです。

参考:(第一朗読:使徒言行録10・34a、37-43)・(第二朗読:コロサイ3・1-4)