2023年04月01日の聖書の言葉

4月2日 受難の主日 マタイ27:11−54

福音個所は長いので聖書をご参照ください。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 受難の主日は、また枝の主日とも呼ばれます。それは枝の行列が行われていたエルサレムの教会に端を発しています。4世紀の後半、聖地巡礼したエゲリア(ヒスパニアの修道女)の記録によると、エルサレムの信徒たちは聖週間の前晩ベタニアに集い、エルサレムまでの道のりを徹夜で歩き、途中各所で朗読したり、歌を歌ったり、祈りをし、棕櫚の枝やオリーブの枝を携えてエルサレム入城をしていた様です。この行列の習慣が、5世紀頃エルサレムから東方教会へそして西方教会に伝えられました。
 そこで受難の主日には、枝の行列をしてエルサレムへ入城したことから枝の主日とも呼ばれ、この日から教会にとって最も大切な典礼の聖なる週間が始まるのです。
 今日から始まる聖週間の初日・受難の主日は、イエス・キリストの復活の栄光に至る道であることを私たちに思い起こさせる大切な日なのです。

 さて福音は、冒頭からいきなりイエスがピラト総督から尋問を受けます。「お前がユダヤ人の王なのか」。これに対してイエスは「それは、あなたが言っていることです」と返答しました。確かにイエスは、ご自分のことをそのように言ったことはありません。また「祭司長たちや長老たちから訴えられている間・・・何もお答えにならなかった」と記されているように、ピラトへの返答を最後に誰にも口を開かなかったのです。一体どうしてそうなったのでしょう。
 俗人の思いからすれば、何も言わなければ相手の言い成りになって、立場が悪くなるのは自明です。にもかかわらず、そうしなかった。その理由は、神の御計画を遂行するため、ご自身に懸かる苦痛苦悩、そして十字架上の死、全て神の計画であったから、当然のこととして甘受されたのです。苦難そして死の原因は、弟子たちや他の人々の罪に起因するものの、イエスご自身が担うことで、弟子たちだけでなくすべての人々の罪を赦し贖われるからです。
 イエスの思い、それは神の思いです。その思いとは、たとえ人々がイエスを目の敵にし、罵り、嘲っても、それらは人々の本心から出たのではなく、どこにでも見られる普通の人で、人々が本心からではないことに気づけば、いつでも神との交わりを持つことが出来ると神、イエスは信じていたからです。ただ残念だけれども、" 今はそのことに気づいてないだけです " という神の、イエスの思いがあるからなのです。

 私たちは、イエスのご復活から今日の福音場面を見ています。しかし、この場面に現在の我が身を置くとき、どのように反応するのでしょうか。恐ろしさのあまり、ペトロのように見つからないよう息を殺して潜伏するのか、あるいは "自分はこの人とは関係ない" と白を切るのでしょうか。ここに私たちの信仰が、問われているように思います。そうした弱い私たちのことを知ってか、イエスを「神の子」と信じられないユダヤ人と、「神の子」であると解った百人隊長や見張り番の兵士たちの語った「本当に、この人は神の子だった」と記した言葉に "あなたはどちらを選択しますか " といつも私たちに問いかけ、回心の機会を戴いている様に感じます。

 「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」(イザヤ50:4)。
 今は回心の時、今年一年、あなたご自身の歩まれた道を振り返ってみませんか。

参考:(第一朗読:イザヤ50・4-7)・(第二朗読:フィリピ2・6-11)