2023年02月18日の聖書の言葉

2月19日 年間第七主日 マタイ5:38−48

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒にニミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音箇所を読めば読むほど、なんだか神のみ旨が解らなくなります。所感は、"相手のいいなり、無抵抗、全て受け入れる" ことで、割りが合わないなぁ〜と考える未熟者の思いです。つまり、損得勘定、利害関係、弱肉強食といった神の思いとは程遠い思いが、未熟者の中に想起して、素直に受け入れられないのです。やはり「目には目を、歯には歯を」なのではないだろうか。どうしてイエスは、それとは全く反対のことを言われるのだろうか。
 今日の話は、非常に理不尽な教えのように思います。こんな難しい教えを日常生活の中で実践できる人が、おられるのだろうかと疑いたくなります。難しい、実践不可能、だからといって、これらの話を無視することもできません。しかし、どこに視点を当てれば良いのでしょう。

 その答えは第二朗読にありました。「・・・本当に知恵ある者となるために愚かなものになりなさい」とあります。人間が認める知恵者と神から見る「知恵ある者」には、違いがあります。いくら賢い人といっても、神から見れば所詮 "悪賢い者" に過ぎない「知恵ある者」なのです。注意しなければならないのは、私たち人間の知恵の延長線上に神の知恵が存在していることではないのです。私たちがつい誤りやすいのは、私たち人間と神とを同列に考えることです。そうする事で口先だけの謙遜、人並みの奉仕、見せかけの祈りで神の知恵を得るが如く人間の知恵が、神の知恵に到達するように錯覚してしまうのです。
 イエスが言われるように "救い" は、働いた事に対する報酬ではないのです。つまり "救い" は、人間の知恵で成せるものではありません。神の知恵は無償で全ての人を対象として贈られるものなのです。
 だったら、何もしなくても良い、ただ謙遜であれば良いということでもありません。神は、ご自身の全てをイエスに託されました。私たちは、イエスの語られる言葉に傾聴し、心から信頼して、その言葉を生きるべく努力をするのです。あの放蕩息子の譬え話を思い出してください。父親は放蕩三昧して戻ってきた息子(弟)を寛大に受け入れました。それを見た兄は、憤って父親に不満をぶつけました。それに対して父親の言葉「喜ぶのは当たり前ではないか」。

 神のみ旨は知恵ある者が得するとか、救いに預かる者になるということではないようです。不条理に思える神の恵みですが、神の人間に対する思いは、人知を遥かに超えているのです。
 だから完全な者に成れるように日々努力するのではないでしょうか。あなたも今日から挑戦しましょう。

参考:(第一朗読:レビ19・1-2、17-18)・(第二朗読:一コリント3・16-23)