2023年02月04日の聖書の言葉

2月5日 年間第五主日 マタイ5・13-16

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である。」この言葉を誤解していませんか。その為にこの言葉から福音を重く感じ、適当に読み流された方も多いでしょう。その原因は、"・・・である"の助動詞にあります。またキリスト者である方の自尊心とも関係しているのかもしれません。この言葉は、山上の垂訓の後、イエスが弟子たちに話している言葉です。
 そこから稚拙ながら、その当時の状況を推測しますと、"あなたは地の塩になりなさい。その為、努力しなさい。" とか "塩にならなければならないよ" 成るか成れないかは、"あなた自身に委ねられていますよ" というように理解するのです。しかし、果たしてイエスは、まだ弟子になって日も浅い彼らにそのように語ったのでしょうか。

 確かに、イエスの弟子となるためには、それ相応の努力、つまり、弟子たちのそれ迄の言動から離脱し、今日からはイエスの思い、考えに従う生き方を学ぶ必要があったでしょう。その意味から判断すると、当然のことながらイエスに仕える為には、"努力しなければならない" と考えます。しかし、この箇所を黙想すると、観えてくるのはイエスと弟子たちの関係です。まだ右も左も分からない弟子たちに、イエスが語ったこの言葉の真意を "・・・である" の助動詞が今日の福音の読み手に教えています。
 それはイエスご自身が弟子に "あなたがたが好むと好まざると" にかかわらず、私(イエス)があなたがたを選んだ段階で既にあなたがた(弟子たち)は地の塩なのですよ。この意味は、"あなたがたは既に地の塩を持っていますよ" ではなく、"私があなたがたを選んだその時から既に地の塩となっているのですよ"。これは "世の光" についても同じです。

 "地の塩、世の光" になれるように日々努力することも大切ですが、イエスに招かれたその時点で既に "地の塩、世の光" になるのです。努力せずして与えられる大きな恵み、これこそ神の人間に対する救いの業なのです。そのことが解れば、弟子たちはイエスにだけでなく、イエスの仕える全ての人にどうあるべきかを、自然に導かれるのです。
 "塩" は、昔から人が生きていく上で大切なものです。大切であるからこそ "塩" は、いろいろな譬えで語られるだけでなく、今も日常生活の中で必需品として使用されています。また "光" は、外側にあるもの、そして内側にあるもの、この両面を持っています。世を照らす光は、物理的に暗闇を明るくしたり、心理的に心を解放したりして、人類がこの世で生きるために必要不可欠なものです。
 この必要不可欠な "塩と光" が、イエスによってあなたに贈られるのです。否、既に贈られていますよ。

参考:(第一朗読:イザヤ58・7-10)・(第二朗読:一コリント2・1-5)