初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
《神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。》
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
《ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。》
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。このフレーズを繰り返すことで、読み手に言(ことば)イコール神であることを強調しています。またこれによって神は目で見ることはできないが、言で "聴く、識る"ことができることを示唆していると思います。事実、私たちは神を目で見ることはできません。
そして次に"言によって天地創造" されたこと、言が人類も創造したことを語ります。ところがその創られた人類は、言(ことば)を受け入れなかった。「しかし、受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。つまり、現代社会においても通じる神=言(ことば)とこの世について語られます。
そして最後に「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。ついに神は、ご自身をこの世に送られたのです。それがイエス・キリストであり、彼は「父の独り子としての栄光であって、恵と真理とに満ちていた」のです。真にイエスの誕生であり、このイエス・キリストの十字架上の死によって人類の罪が贖われ、その恵みによって、すべての人が救いに与ることができるのです。
そのイエス・キリストが今日、私たちの間に"あなたの中に"お生まれになったのです。