2022年10月22日の聖書の言葉

10月23日 年間第30主日 ルカ18:9-14

 そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日のテーマは、ルカ福音の特徴である"貧しい人の祈り"です。そのことを今日の福音は、明確にしています。"貧しい人にとって、虐げられている人にとって"救いの言葉です。特にキリスト者は、今日の福音をしっかりと体得しておく必要があると思います。当然の事として"キリスト者"とは、教皇はじめ信徒一人ひとり全ての人を指している言葉である事を理解しておきましょう。

 9節の初めに「自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された」とあります。そこで先ず、この「自惚れて」という言葉です。広辞苑を引きますと「自惚れる」とは、実際以上に、自分を優れていると思って得意になる人のことを指しています。一方、ギリシャ語ではπεποιθοταζ確信、信頼、頼み。英語訳trusted in themselves自身を信頼、頼み、確信すると訳されています。ここに日本語訳と原文ギリシャ語訳、そして英訳に違いが見られます。自惚れる;思い上がる、自負する、いい気になるといった態度は、人間としてマイナスイメージの強い人を指して言う場合に使われる言葉です。
 しかし、ここでイエスの言われるπεποιθοταζペポイソータスとは、自分自身を頼る事、つまり、神ではなく自分に頼ることを言われるのです。ということは、今日登場したファリサイ派の人は、とても熱心で努力家で信仰心の厚い方です。だから毎日彼は、教え以上に信者としての務めを実践している人です。ところが彼は、それまでの自分の努力があったればこそ、信仰者として今日の自分があることを確信し、自助努力があればこそ多少神から離れたとしても、大目に見てもらえるだろう。なぜなら自分は神の教え以上のことを毎日実践しているから、だと思い込んでいたのでしょう。
 その自分自身の努力への自負心から、徴税人や不正な者に対して自然に蔑みの言葉を発したのではないでしょうか。イエスの望まれる祈り、神への姿勢とは、人間の間で崇められる人ではなく、神の憐れみによって正しくされた人です。また自分の正しさを中心に置く人ではなく、自分の罪の上に神の憐れみを置く人を神は選ばれるのです。イエスは言われます。「私が来たのは医者を必要とする人のためではなく、罪人を招くために来た」と。徴税人こそ、彼の心の姿勢こそ、神の前にふさわしい人なのですと今日の福音は教えています。

 今日のイエスの福音から、気づきを与えられている方が多いのではないかと思います。否、もしかしてあなた"教会おじさん、教会おばさん"になって、そうでない人を色眼鏡で診ていませんか?
 キリスト者にとって何が大切で、何が必要なのか、そのことをしっかり心に刻みましょう。努力することは決して無駄ではありません。しかし、ゆき過ぎた努力、自画自賛の努力は、気づかないうちに隣人との間に溝を作っているかもしれませんよ。

参考:(第一朗読:シラ35・15bー17、20−22a)・(第二朗読:ニテモテ4・6ー8、16−18)