2022年10月15日の聖書の言葉

10月16日 年間第29主日 ルカ18:1-8

 そのとき、イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日のテーマは、「祈りの効果」と言っていいでしょう。毎日何らかの形で"祈り"をしているキリスト者ですが、今日の福音から更にその真意を理解して頂ければ幸いです。さてイエスは祈りをする時は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われます。その理由として、譬えを使って話されます。

 譬えの登場人物の一人は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。もう一人は、世間から見放された"やもめ"です。この裁判官は、"不正な裁判官"と記されているように、どうも正式な裁判官、本物ではないようです。つまり、当時、裁判沙汰になるような事件が多かった為か、臨時の裁判官を必要としていたらしいのです。その臨時の裁判官が、誰にも保護されることのない"やもめ"から救済をせがまれたのです。そこで不正な裁判官とはいえ、一応、裁判官ですからたとえ相手が"やもめ"であっても裁判官として対応しなければならなかったのです。しかし、当時 "やもめ"の社会的な立場は、非常に弱い立場であり、誰も相手にしなかったのです。ところが"やもめ"は、自分の立場を十分承知しており、そのため執拗に裁判官に取り上げてもらうまで願い出たのです。この"やもめ"の執拗さからイエスは、祈りの大切さを教えているのです。

 信仰を維持するため"祈り"が大切であること。"祈り"は、その人の都合の良いときだけ、何か願い事をするときだけではなく、絶えず祈る事の大切さを教えます。私たち人間は、全て自分の思い通りに事が進んでいる時、喜びのうちに神に向かって、賛美と感謝の祈りを唱えています。しかし、辛い時、苦しい時、自分の思い通りにいかなくなった時など、神への感謝はおろか、祈ることさえ忘れていないでしょうか。そんな時こそ"やもめ"のように、自分自身の至らなさを素直に認め、ありのままの自分を神に捧げるのです。そして、願い続けるのです。
 人生は順風満帆でない事を知りながら、心の何処かに自分はキリスト者だから、神がいつも守ってくれるから、全て自分の思いは神の計画だからといい加減な生活を過ごしていないでしょうか。

 当時のユダヤの人々は、自分たちは神に選ばれた民だから、多少怠惰なことがあっても許される、神が特別に選ばれた民だから・・・。しかし、そのような思い上がりをイエスは、喜ばれません。誰であっても、いつも祈る人こそ神に喜ばれる"神に選ばれた人"なのです。その事を強調しているのが最後の一節です。「人の子がくる時、果たして地上に信仰を見出すだろうか」。
 信仰は神様の働きを表す力です。仮に人々の中から信仰がなくなれば、祈りも無くなり、同時に神様の働きも無くなります、否、人々の心から忘れ去っていくのです。

 イエスから恵みをいただいた人、その為には、どんなことがあっても「気を落とさずに絶えず祈る」ことが大切なのです。あなたは忘れていませんか?

参考:(第一朗読:出エジプト17・8ー13)・(第二朗読:ニテモテ3・14〜4・2)