2022年10月01日の聖書の言葉

10月2日 年間第27主日 ルカ17:5-10

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音のテーマは『信仰』、その信仰を持って"喜んで奉仕する"ことを勧めています。その信仰とは、神がイエス・キリストを通して行なった業に対する信仰です。つまり、イエスは人々の罪を赦し、人々に喜んで奉仕された事です。第二朗読で使徒パウロは生涯、その為に働いた事を書簡の中で表現しています。またパウロらしくその事を「福音を告げ知らせる為に、犯罪人のように鎖に繋がれています」(テモテ二2:9)とも言います。

 福音の冒頭で使徒たちが、イエスに「信仰を増してください」と言います。しかし、どうしてそんな事を言ったのでしょうか? それは今日の福音の、前節(4節)を観れば自明です。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」この言葉に対して使徒たちは、自分たちに人を赦す力が無いので、もっと力強い信仰を求めたからでしょう。そして、使徒たちの問いに対してイエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と答えます。つまり、信仰の持つ力は、どれほどのものであるか、その力を使徒たちに伝えるのです。
 この言葉のやり取りから分かるように彼らも信仰は、持っていました。しかし、もっと自分たちの「信仰を増してください」と言うのです。それはまだ使徒たちの信仰が浅い事、本物の信仰に至っていない事を指しており、パウロの言われる「完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ・・・無に等しい」からです。つまり、愛に満たされた信仰が、イエスの言われる本物の信仰である事を教えているのです。
 それを具体的に使徒たちへ譬えで話されます。その鍵となる言葉「命じられた事を果たしたからと言って、主人は僕に感謝するだろうか・・・」。つまり、私たち人間は、神から愛され、その愛によって育まれながら生きています。その愛が見える形でこの世に現れたのがイエス・キリストであり、そのイエスの言葉を神の教えとして日々の生活の中で生きることが望まれているのです。その神の愛は、報酬、対価として戴いたのではなく、神から無償で"恵み"として全ての人々に与えられているのです。
 もちろん、そのことに気づいているか、否かは各個人の問題です。そのことに気づき、神への感謝と賛美を捧げる者は、イエス・キリストを通して、信仰を頂戴しています。その信仰は、無償で頂戴したのであり、押し付けられたものではありません。

 信仰に生きるとは、何か善い行いをしたからその見返りとして何か報酬を受けることではありません。例えば通常、労働の対価として賃金を得ますが、"貴方は信仰を持っている人だから"特別な人として、労働賃金とは別に特別報酬を得る事は、当然だといえるでしょうか。
信仰とは、奉仕の奥に秘められた「神の愛」に気づくことであり、報酬、対価ではないのです。勘違いされてはいませんか。

参考:(第一朗読:ハバクク1・2ー3、2・2−4)・(第二朗読:ニテモテ1・6ー8、13−14)