そのとき、大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
今日の福音は、ガリラヤからエルサレムまでの道中におけるイエスの教訓、その中で最も大切な事が話されます。教えの中で度々語られていることです。
それはイエスに従いたい者、イエスの弟子になりたい者への条件です。その条件を満たさないなら「私の弟子ではありえない」と繰り返し言われます。
しかしその条件は、とても厳しい条件であると思います。第一の条件に挙げられるのが、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・」と言われます。このように大切な人を憎む、更に自分の命を"憎む"とは、一体どういう事なのでしょう。全ての人を大切にされるイエスの教えからは、全く矛盾した言葉のように思うのです。
ここで気になるコトバ「私の弟子ではありえない」と繰り返す言葉です。
イエスの言われる弟子となるための条件として、三つの条件を挙げていますが、これらはどこか"繋がっている"ように感じました。調べたところ聖書学者雨宮師によると第一番目の条件「憎む」は、ただ単に父、母・・・更に自分の命を憎む事ではなく、次の第二でいう条件の「自分の十字架を背負ってついてくる者」と繋がっていると言われます。
私たちが大切に思う"父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命"は、自分サイドで考えた理想の人・像であって、現実の"あるがままの人・像ではない"ということ。確かに、相手が自分の思い通りに話すことも、働く事もしなかった場合、自分は苛立ち腹を立てることが多いのではないでしょうか。
つまり「自分の十字架を背負う」とは、「"相手をあるがままに受け入れない自分"という十字架を担う」ことなのです。
そして、第三の条件として"譬え話"を用いて教えているように、"塔を建てようとする時、不利な条件で敵を迎え撃つ時"、誰でも前もって腰を据えて考えれば、どうすれば良いかは、自明であると言われます。それは"もう降参です。参りました"と言わざるを得ません。
"捨てる"こととは、投げ捨てる事ではなく、捧げる、提供する、執着しない、全て共存共有する事なのです。
イエスの言う"私について来たい者"とは、自分の慣れ親しんでいるものを憎み、自分の十字架を背負い、自分を一切捨てる事で弟子になる、そうする事で、神の思いに全て従うことができるのです。
それは修道生活者も同様の誓いを立てています。しかし、それらを『あなたは』実践していますかと問われれば、「まだです」と答えざるを得ない自分です。勿論、それに向かって歩んでいますが「時間がかかり過ぎますね」とイエス様の声が聞こえてきます。
修道生活者の誓願は、真に"清貧"=捨てる、"貞潔"=憎む、"従順"=背負う"にピッタリ当てはまるように思います。神に感謝
参考:(第一朗読:知恵9・13ー18)・(第二朗読:フィレモン9bー10、12−17)