そのとき、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
今月に入ってルカ福音書の朗読箇所は、読み人にとって痛い所を指摘されているように感じます。ということは日常生活において、人としての言動が若干ずれていることが原因かもしれません。通常、頭で理解していても日常生活の忙しさに振り回されて、人に対すがついおざなりになり、自分のことだけで精一杯の生活になっているのが原因かもしれません。しかし、それほど忙しいのかと振り返る時、「そうでもないなぁ〜」と思います。では何故そうなるのでしょうか。そのことが今日の福音から教えられているように思います。
今日、登場するのはイエスを囲んでマリアとマルタ(丸太;あえて漢字で記す)のお話です。彼女達姉妹は、イエスを迎えるに当たって全く別の行動をとっています。マルタは、全く予期しなかった我が家に来て下さるイエスに喜んでいただこうと最高の"おもてなし"の準備で忙しく働いています。
一方、マリアは"なんというチャンス"イエスが来て下さる。滅多に出会えない人が"我が家"に来て下さって"絶対に貴重なお話をしてくださる"それを逃すことなく聞かせて頂くことを楽しみに心待ちにする姿です。
ここで問題が起こるのです。マルタは「いろいろなもてなしのため、忙しく働いていた」と記述されているように、恐らく我が家に来てくださるイエスを"もてなすこと"だけに奔走し、イエスの気持ち、イエスの真意から離れて、ただ自分の思い、考えが先行してしまい"自分の思い通り"にすることが、イエスに喜ばれると勘違いしたのでしょう。
一方、マリアはイエスの話を聞きたい、イエスは彼女達に話したい、伝えたい、その思いをマリアだけが受け止めていることです。つまり、マリアは救いに与る為にはまず「聞く」ことから始めることを知っていたのでしょう。
マルタの"おもてなし"は、イエスにとって有難いことですが、おもてなし以上に"話をしたい、聞かせたい、聞いてほしい"イエスの思い、考えがマルタの心の目には映らなかったのです。色々もてなすことがマルタの目に"丸太"となって、大切なことを見えなくしてしまったのです。そこでイエスはマルタに向かって「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している・・・」と言われたのです。
同じような状況に置かれた場合、あなたはマルタ? それともマリアのように行動できますか。これは、私たちの日常生活で殆ど毎日起きているように思います。ところが私たちの取る姿勢は、どういうわけかマルタの取った言動ではないでしょうか。その原因は、そうすることが尊ばれ、価値ある社会常識とされているから。人から見られ評価される自分、この良い評価を受けたいという私利私欲が自動的に働くからではないでしょうか。
この自動的に働く私利私欲を今日改めて修復することができますように。
参考:(第一朗読:創世記18・1ー10a)・(第二朗読:コロサイ1・24ー28)