そのとき、イエスは群衆に神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
イエスは弟子たちを伴ってガリラヤ中を巡り歩き、貧しい人、困った人々のために救いの手を差し伸べられていました。そんな折、あのヘロデ王が、登場します。彼はイエスが大勢の人を魅了させる言動を噂に聞き、その妬みからか、恐れからか、好奇心からか、彼の言葉から世の支配者に見る権威主義、独裁専制主義者を感じさせる言葉「ヨハネなら、私が首をはねた。いったい何者だろう。耳に入ってくる噂の主は」(ヨハネ9:9)と発し、イエスに会ってみたいと考えていました。その頃イエスの活動は、日を追うごとに地方一帯に知れ渡り、いつも幾人かの弟子を従え精力的に活動していました。また弟子たちは、イエスによって村々へ派遣され、行ったその先々でイエスの教えた言葉を伝えた後、再びイエスのもとに戻ってきたのです。イエスの活動が、また傍で手伝う弟子たちの働きが、休む間もなく続けられている様子を、聖書の中から汲み取ることができるでしょう。そして今日の箇所では、五千人以上の人々に向かって話をされていた時のことが記されています。
その日、陽が傾き始めたにもかかわらず、まだイエスの話が続きそうなのを知った弟子たちは、イエスにそろそろ「群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と伝えます。ところがイエスは、弟子たちに「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と言います。その言葉に対して弟子たちは「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません、こんなに大勢の人たちに食べさせるには買い物に行かなければ・・・」と。するとイエスは、弟子たちに「人々を50人程一組にして座らせなさい」と言われます。これがパンの奇跡の前兆です。確かに、奇跡は起こったでしょう。しかし、この箇所を深読しますと [夕暮れ→解散要求→群衆自身で宿と食事の手配を→弟子達は手配不可だから→イエス弟子に指示→物理的に不可能→イエス弟子に指示→イエスの祈り→奇跡]、となります。
ここで気付かされることは、イエスの宣教"神の国を伝えること"が、イエスで終わらないこと。その為には、弟子たちに引き継がせることが大切であることなのです。またイエスの祈りから、祈りは自分の思いや考えを願うことでなく、自分と神との絆・交わりが大切であることを教えているのです。またこの箇所で最も重要なことは、"パンが増えた"とは何処にも記述されていないことです。むしろ増えたことより「あなた方が与えなさい」という"与える"ことに重点が置かれているのです。
この不思議な奇跡は、誰が考えても五千人もの人に僅か"五つのパンと二匹の魚"では足りないことは自明です。つまり、ここでイエスが弟子たちに伝えようとしたのは、"自分の力に頼ろうとすれば、その場で挫折しますよ"ということではなかったでしょうか。このような時に遭遇したら、その不可能な全てをイエスに委ね、そして再びイエスから受け取るならば、不可能も可能になることを教えてくれているのではないでしょうか。現代は真にその場面に遭遇していると言えないでしょうか。
今こそ人間の力ではどうにもできない問題の数々を、イエスに全てを委ね、再びイエスから受け取ることができるよう、心からお祈りしましょう。イエスを通して与えられるものが、私たちの持つ貧しい現実から豊かさに変えられますように。アーメン
参考:(第一朗読:創世記14・18ー20)・(第二朗読:一コリント11・23-26)