そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
今日の福音箇所は、前節の続きでイエスの約束の⑤番目「弟子たちを真理の霊に導く」について話されます。しかし、はじめに言われるように「今、あなたがたには理解できない。しかし、真理の霊がくると、あなた方を導いてその真理をことごとく悟らせる」と言われます。つまり、理解できるまでには少し時間がかかりますよ、ということでしょう。何故しばらく時間がかかるのでしょうか。その訳は、イエスが話したこの時点では、まだ神の計画である受難の時が始まっていないからです。したがって弟子たちは、これから何が起こるかも知らないし、何を理解したら良いかも一体何のことだか、さっぱり見当もつかなかったでしょう。また、イエスの受難が始まるとともに弟子たちへの迫害も同時に起こることも分かっていません。人間の心理として誰でも順風満帆の時には、余裕を持ってなんでも無難にできますが、いざ状況が悪化した途端、途方に暮れてしまいます。ましてや全てが暗転することで、それまで理解していたものも、あまりのギャップから理解できなくなってしまうことがあります。
現代における福音宣教においても、それに類似したことが見られます。かつて日本も戦後の厳しさの中で、救いの手は必要でした。ところが時の経過とともに、敗戦時の貧しさとは比較できないほど豊かな生活を得られるようになった今、それまで必要とした救いは必要でなくなりました。同時に神の助けをも必要でなくなったと誤解しているように思います。必要でなくなったのは、物質的なものだけではないでしょうか。
さて真理の霊が来る約束は、聖霊降臨によってもたらされたとなれば、すでに理解できていたはずではないのだろうか。しかし、イエスはまだ存命中にこれから起こる話をされている状況であり、この時点ではまだ弟子たちとの約束の段階なのです。したがって、弟子たちが理解するその時までには、時間の隔たりがあるということです。この箇所も前節のヨハネ福音書の前半部分もイエスのご復活から観て理解しますと、まさに三位一体(父、子、聖霊)のことについてイエスが話されていることに気づかされます。同時に、ご自身が復活後、幾度となく弟子たちの前に出現され、弟子たちの目前で非現実的な出来事と現実的な出来事を併せて示されたことで、あれほど疑い深かった弟子たちが、180度変えられる事実も理解できるようです。イエスの話されるその方とは、「聖霊」であり、その「聖霊」が「イエスに栄光を与える。イエスのものを受けて、あなたがたに告げるから・・・」。「父が持っておられるものは全て、私のものである。だから私は、『その方が私の、ものを受けて、あなたがたに告げる』。この三者のつながりは、まさに"父と子・イエスと聖霊"のつながりを指しているのです。その強い絆の中へ弟子たちを、さらに私たちを招き導いてくださるのです。まさに別のもう一人の弁護者とは"父とイエスから発出される聖霊"のことではないでしょうか。神に感謝
参考:(第一朗読:箴言8・22ー31)・(第二朗読:ローマ5・1ー5)