そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」
ヨハネ福音の14章15節から聖書のサブタイトルにもあるように"聖霊を与える約束"、つまり、イエス様がこの世を去ったら自分の代わりに聖霊を派遣することを約束する箇所です。
この聖霊の派遣の約束は、ヨハネ福音書の中で繰り返すこと5回もあります。①14章16−17節 ②今日の福音14章26節 ③15章26節 ④16章8-10節 ⑤16章12-15節です。これはイエス様を通してこの世で実践された神の啓示は、最終的に聖霊によって完成されることを教えています。
この第2回目の"聖霊を与える約束"の今日の箇所で、イエスが弟子たちに向かって話したことは「すべて私の言葉ではなく、私をお遣わしになった父のものである」と話されます。そして残念だったけど、あなた方は信じない、さらに守らなかった。でも私にはもう時間がないのです。今日まであなた方に話したこと全てを思い起こさせるために、私に代わって聖霊を送るのでその聖霊が全てをあなたがたに思い起こさせます。また同時に「あなた方に平和を与えるが、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『私は去っていくが、またあなた方のところへ戻ってくる』と言ったのをあなた方は聞いた」と話されています。
イエスの言う「去っていく」とは、十字架上の死を意味していると思います。それはまた御子であるイエス様が、父のもとへ帰るということですが、人間と同じようにこの世から消え去ってしまうのとは違うようです。その理由を弟子たちは、本来知っているはずなのですが、現実はそうではなかったのです。そこでイエスは、あえて「私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」と皮肉っぽく言われたのでしょう。しかし、もし私たちが同じ状況に置かれたら、どうでしょうか。やはり弟子たちと同じように、うろたえ、怯え、悲しんでいたのではないでしょうか。否、それ以上だったかもしれませんね。それはイエスの言う神を"信じる、信頼する"ことが、まだ頭の中だけの理解で、自分にとって都合が悪くなれば、難しくなり、教えの真髄まで忘れてしまうからでしょう。確かに、難しさは常に伴っています。しかし信仰とは、神に向かって歩み続けること、決して諦めないで歩み続けることです。
「私を愛する人は、私の言葉を守る」とイエスは言われます。イエスの言葉は、また神の言葉でもあります。そこでイエスは、離れ去った後、聖霊を弟子たちに送る約束をされました。その聖霊の派遣は、弟子たちにイエスの言葉を全て思い起こさせるためです。このイエスの言葉は、神の言葉であり、それらすべてを思い起こさせる聖霊が恵みとなって、弟子たちの中で働くことを約束されたのです。その約束はまた、私たちとも繋がっているのです。
参考:(第一朗読:使徒言行録15・1ー2、22-29)・(第二朗読:黙示録21・10ー14、22-23)