福音個所は長いので聖書をご参照ください。
今日の福音箇所は、イエスの受難の始まりの記述です。イエスの受難は、人が置かれた立場の都合でする身勝手な振る舞いを露わにします。それらはイエスの思い、考えなど全く無視した言動です。これはイエスが宣教していた時も同様のことが多々あったことを思い起こされるでしょう。その集大成が、今日の箇所ではないでしょうか。本来イエスが受ける必要のない受難を、イエスは御自ら引き受けられるのです。
この状況を客観的に眺める時、何か観えてこないでしょうか。現代社会に蔓延している"いじめ"の問題です。確かに被害者は、イエスのように神の子ではない。しかし、受難に至る流れを観るとまさに"いじめ"のパターンを想像します。群衆からピラト、ピラトからヘロデ、ヘロデからまたピラトへ。なぜそうなったのか?ピラトが言うように、「イエスには何も罪が見つからなかった」のです。もう一つは、皆自分の手を汚したくないからです。そこでピラトは再度イエスについて群衆に尋ねたが、群衆は聞き入れなかった。ただ「十字架につけろ」と叫ぶだけです。その結果、ピラトは、群衆の言いなりに、イエスを十字架につけることを決めてしまった。そしてイエスを群衆に引き渡し、彼らの好きなようにさせた。
ここに現代心理学でいう"群集心理"が彼らの中に働いていたように思います。つまり群集心理とは"大勢の群衆が集まって興奮した状態になって騒ぎ出すと次第に判断力が低下し、衝動的、無責任な行動をとること"です。この心理現象は、現代においてもよく遭遇します。
その後イエスは、二人の犯罪人と一緒にゴルゴタに向けて群衆に引いていかれます。目的の場所に来るとイエスは、十字架につけられました。そして、イエスを真ん中にして二人の犯罪人も同じようにつけられました。
十字架上でイエスは神に向かって「彼らは何をしているのか知らない・・・」と弁護されます。群衆の言葉はイエスをあざ笑うかのように「もし神の子なら・・自分を救ってみろ・・・」。そして「イエスの頭の上に『これはユダヤ人の王』と書いた札を掲げた」。この兵士たちの態度、言動を想像するとき、人間の何処かに潜む歪んだ異常な行動に驚かされます。また十字架にかけられた犯罪人のひとりからもイエスは「自分自身を救ってみろ・・・」と罵られます。それに対してもう一人の犯罪人が、「主よ、あなたが御国においでになる時には・・・」と。
この言葉からイエスは、口を開き「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。このイエスの言葉から、どんなに罪を犯していても、神の愛に気づき心を神に向ける時、"あなたの罪は赦されます"と神の愛に包まれるのです。
私たちも神の愛に気づき心を神に向けられますように。
参考:(第一朗読:イザヤ50・4ー7)・(第二朗読:フィリピ2・6ー11)