そのとき、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を〝霊〟によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その時、天から降った聖霊とともに帰えられた。そして、その霊に荒れ野で40日間もの間振り回された後、悪魔の誘惑を受けたと記述されています。ここで霊の働きには、証と誘惑の種類があることを示されます。どうして神の子であるイエスが、誘惑を受ける必要があったのでしょうか。
ここにルカ福音史家が、伝えたいイエス像があるのではないでしょうか。つまり、イエスは神の子ですが、この世の権力者のような者とは違う権威を持った方であることを伝えようとされます。何故なら神の子の本質は、神のご計画の中にあり、その計画に従うことなのです。しかし、人を魅了するようなものを一切見せないのです。神のみ旨は、「旧約聖書」のなかに認められているからでしょう。
イエスのみ言葉を聞くことから始まると示唆するこの箇所は、イスラエルの民のエジプト脱出と関連させて記述されたと伝えられます。したがって、イエスは悪魔から誘惑を受けた時、旧約聖書の申命記の言葉から悪魔に向かって答えます。また40日間はイスラエルの歴史で民が受けた試練と苦しみを想起させているのです。
第一の悪魔の誘惑でイエスは、石をパンに変えなかった。それは神とは、不自由や不都合を取り除くために働かれることではなく、試練にあった時、苦しみの中にあるときに、支え励ましてくれる方だからです。
第二番目は、一切の権力と繁栄を与えることに対して、神の計画はすべての人の罪の束縛からの解放であり、神の計画を知ることですと言います。
最後の誘惑に対して神の与える試練は、人を苦しめたり、悲しませたりすることではなく、神の恵み深さを知らせる為の教えであって、これを通らなければ、不幸にして受けた試練や苦しみが、神から離れてしまう原因になると言われます。
私たち人間は、苦しみや悲しみの試練に遭うと、そこから逃げよう、避けよう、遠ざかろうと必死になります。しかし、そんな時こそ、その試練に真正面から向き合い耐え忍ぶことによって、神を近くに感じられるようになると言われています。しかし、現実問題として試練に出会う時、どうすれば苦しみ、悲しみ、困難を神からの「試練」として受け止められるのでしょうか。普通、そのような時、人は悪魔の「誘惑」あるいは「仕打ち」と受け取ってしまいます。
イエスは、いじめ、苦しみ、悲しみを受けるとき、神様が私達の傍にいてくださることを信頼しなさいと言われるのです。
誘惑に会う時、神様が必ず、恵みで癒して下さることを信じる力が与えられますように。
参考:(第一朗読:申命記26・4ー10)・(第二朗読:ローマ10・8ー13)