そのとき、イエスは弟子たちに、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
今日の福音は、譬え話で終始します。イエスは言われます。"み言葉を話しても理解できない者には、譬を使って話す"と。つまり今日の話は、聞く者、読む者に解りやすいお話ということになります。イエスの弟子となってまだ間もない者たちにとって、イエスからの温かい思いやりでしょう。ところが"譬え"ギリシャ語παραβοληパラボレーには、"なぞ、わな"と言う意味もあり、人によって譬えで余計に理解できない場合もあるようです。弟子たちはどうだったのでしょう。
イエスは譬えのはじめに"盲人が盲人の道案内はできない"と自明である事を言われます。次に"誰でも修行を積めば師のようになれる"と言われますが、修行と言っても沢山あります。どんな修行を指して言うのでしょうか。例えば、日本で修行と言えば"千日回峰"、"百日回峰"、"修験道の滝行、護摩行"といろんな修行があります。その修行によって「悟りを得る、悟りを開く」ことを目指して行われます。つまり、どのような修行であっても"悟りを得る"ことなのでしょう。特にキリスト教では、イエスのみ言葉を生活の中で祈り、活かすことが、修行であると考えて良いのではないでしょうか。
その修行生活は、「人のための人」に近づく為、自我から離脱できる人を目指す生き方と思います。この譬えで、"見えていない人は、あなたですよ"と言われると、確かに現在の私たちは、"その通りです"と言わざるを得ません。当時の弟子たちもイエスの目には「盲人」としか映らなかったでしょう。
次にイエスは、弟子たちに向かって「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太・・・」と言われます。"おが屑"は"丸太を削って出る屑"です。つまり、"自分の目の中の丸太を取除けない者が、どうして兄弟の小さなおが屑を取り除けますか"というのです。
私たちは、いつも自分の価値観という色眼鏡で物事を見て判断しています。つまり自分の価値観でしか物事が見えていないのです。今日のみ言葉のいう目とは、神から見た目を指しています。先ず、自分の思考を少し俯瞰的に見て、再考することです。そして、イエス様の価値観でもう一度、見直してみることでしょう。そうする事で何かに気づかされ、何をどうすれば良いのか、見えてくるのではないでしょうか。
福音の最後にその道理が言われます。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」正に"良い木、善い人"を目指すには、自我の殻から脱却し、イエスの教える新たな道へ、喜びと共に歩み始めることでしょう。
参考:(第一朗読:シラ27・4-7)・(第二朗読:一コリント15・54-58)