そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
今日の福音は、イエス様がこれから神の国を大勢の人々に伝えるための準備として指示しているように思います。洗礼者ヨハネからの受洗後、荒れ野で40日間の誘惑試練、そしてガリラヤから始まった伝道。ところが故郷のナザレでは、誰もイエスを歓迎するどころか、追い払われたのです。その後、イエスはカファルナウムへ行き、会堂で教え、困った人々を助け、病気の人々を癒された。そこでイエスが見たもの、それは大勢の人々が苦しみ悩んでいたことでした。この現実を知ったイエスは、この悲惨な状況を変えなければと考えられたのでしょう。その為には、この世界で生きる人々が、同じ世界で苦しむ人々を助けることが一番効果的で良いと判断されたのだと思います。
そこで神のみ旨を知ることが出来るように、先ずイエスの弟子となる者から探す。当時イスラエルには、12の部族があったことから代表者12人を相応しいとされ選ばれた。後に彼らは12使徒とされます。そして、イエスは選んだ弟子たちを従え、方々の町や村へ神の国を宣べ伝えられます。その始まりが「貧しい人は、幸いである・・・」、このみ言葉でした(ルカ6:20)。
それに続いて今日のみ言葉「敵を愛しなさい」と話されます。今日の言葉は、何故か極端な言い回しのように感じさせられます。しかし、あえて極端に反対の言葉を並べる事によって、聞く者に解りやすいと考えられたのでしょう。さらにイエスは、弟子たちに向かって諭すように語ります。イエスの言葉を聞いた弟子たちは、どのように受け取るのか。み言葉の箇所をよく読むと、27節から36節は、"神が私たち人間に対して取られている姿勢"そのものではないでしょうか。
その証拠に36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と話されます。つまり、"今すぐにそう成りなさいということではない"ことが分かります。そこでイエスの言う言葉を実現させるためには、次の37節から記述する「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも・・・赦しなさい・・・秤で量り返される」と教えているように、イエスは冒頭で話したような人になるためには、"このようにすれば、あなたがたも実現可能に成ります"とその道理を話されているのです。
ご自身の選ばれた貧しい弟子たち、ただ僕として従わせるのではなく、寵愛し、懇切丁寧に弟子たる者への道、イエスの示される道を共に歩みながら教えられるのです。その教えは、私たちに向けて語られています。
参考:(第一朗読:サムエル上26・2,7ー9,12-13,22-23)・(第二朗読:一コリント15・45-49)