2022年01月08日の聖書の言葉

1月9日 主の洗礼(ルカ3:15-16、21-22)

 そのとき、民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 主の洗礼の意図は、何であるのか。そのことが今日の福音の中で教えられます。2022年を迎えた初日、神の母マリアの祝日において「み言葉」を出来事によってその信憑性を確かなものと証しました。そして、2日の主の公現の福音で「み言葉」とそれを徴す「出来事」は、特別に選ばれた者にだけに向けられているのではなく、すべての人を対象にしている事を確認しました。但し、その「み言葉」を選ぶか選ばないかの判断は、み言葉を聞いた人に委ねられているとも言われます。良い判断ができるのは「聞く」ことができているか、いないかなのです。聖書において「聞く」とは、パウロも言うようにただ何となく聞くのではなく、心の耳を傾けて聞くのです。なぜなら「み言葉」には、隠された不思議な神秘が含蓄され、私たち人間の常識的な判断では理解できないからです。その常識から解放されるためには「聞く」、マリアのように心に納めて繰り返し思い巡らす事を必要とするのです。したがって、今日の福音の鍵となるイエスの「洗礼」は、その神秘を表現しているのです。

 罪のない人が、なぜヨハネの言う「悔い改めの洗礼」を受ける必要があったのか。この洗礼は不思議です。しかし、その理由についてイエスがヨハネの目前に来た時、彼は「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに・・・」。これに対してイエスは「今は止めないでほしい。正しい事を全て行うのは、われわれにふさわしい事です」(マタイ3:14-15)と答えます。そして、イエスは受洗後、祈っていると「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」(ルカ3:21-22)。つまり、ここで大切なことは、洗礼は罪の赦しと繋がっていますが、罪のないイエスが洗礼を受けたのは、洗礼によって人の罪が赦され義とされるということではないからです。

 私たちが義とされるのは、罪云々とは関係なく、「神との正しい関係に入る」ということ、「神との関わりの必要性」を第一としなければならないからです。勿論、罪の赦しを第一としなければならない私たちですが、イエスのいう「洗礼」は、神との関係性の中に入れて戴き、それによって「義」とされ、「永遠の命」を受け継ぐ者とされることなのです。どれ程わたしたちは、日常生活の中で小さなことに捉われ、振り回されているかを気づかされます。イエスの愛、その根源となる今日のイエスの洗礼が、私たちとの繋がりを確かなものにしているのです。その事実を知らされる時、あなたはこれまでと同じ生き方を続けられますか。

参考:(第一朗読:イザヤ40・1ー5、9-11)・(第二朗読:テトス2・11ー14、3・4-7)