2021年12月25日の聖書の言葉

12月25日 主のご降誕:早朝のミサ(ルカ2:15-20)

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムヘ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 幼子の誕生の知らせが、天使から野宿しながら羊の世話をする羊飼いたちに真っ先に告げられたとあります。権力社会の中で起こった見えない出来事は、矢張り人知れず、しかも貧しい羊飼いに知らされたのです。つまり「良い知らせ」を戴く条件として小さな者、貧しい者、人から相手にされない者、真面目に掟を守る者、素直に喜んで人に尽くす者へのご褒美として贈られるのでしょう。現代人も含めて多くの人は、目立たない人、目立たないものに対し殆ど関心を持たないし、相手にすることもありません。むしろ「時間の無駄」と判断し、避けることが多いでしょう。

 ところが神の判断は、目立たないものに時間を費やすのは無駄と考える人と真逆の価値観であることに気付きます。羊飼いたちも、正直、天使から幼な子の誕生を告げられましたが、乳飲み子を発見するまで疑心暗鬼だったかも知れません。しかし、彼らは天使から告げられたその通りだったので驚いたでしょう。そして、その事を正直にマリアとヨセフに話したのです。話されたヨゼフとマリアは、おそらくこれまでの出来事すべてを思い起こし、偶然にしてはあまりにも不思議なことが続きすぎることに驚いている光景が記述されます。それがマリアのとった態度「出来事すべて心に納めて、思い巡らしていた」という記述から推察できます。

 誰にでもそれぞれ不思議な出来事との遭遇体験を持っています。人生の中での節目節目に、なぜか不思議な出来事を体験する人は、少なくありません。そのことに気付き、素早く対応する人、しない人、人それぞれです。しかし、それらを振り返る時、なぜかその体験から不思議のままでなく、それまで理解できなかったことが、出来事を体験したことによって、その意味を教えられることがあります。

 今日、あなたも体験した不思議な出来事、その意味を気づかせて戴けるよう丁寧に、謙遜にその当時を振り返ってみませんか。きっと何かあなたへの素晴らしいメッセージに気づかされるかもしれません。

参考:(第一朗読:イザヤ62・11~12)・(第二朗読:テトス3・4~7)


 

2021年12月25日の聖書の言葉

12月25日 主のご降誕(日中のミサ)ヨハネ1:1-18

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 <神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 <ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。>

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 現代社会の問題の根底にあるのは、自己中心、私利私欲、更に自国優先経済至上主義によって形成された大きな要因であると思います。自国優先経済至上主義の損得勘定、勝ち負けから生じる価値観は、自己中心的な考えの増幅、隣人に対する無関心・無感動を生み、その結果、人間の心と同時に地球をも荒廃へと導いています。また、先人達の培ってきた素晴らしい文化・伝統を踏みにじり、人間にとって忘れてはならない大切な"思いやり"まで取り去ってしまうのです。

 社会の汚染の発端は、「聖職者(教師・医者・僧侶)の堕落」から始まったと言われました。そして現在の気候変動の原因は、人類の過激な競争によって生じていると言われます。つまり、すべての汚染は、人間の内側と外側から人為的に行われているのです。その原因は"自我"、つまり"原罪"ではないでしょうか。

 今日の問題は、長い年月かけて人類によって作り上げられたのです。大勢の人間の欲が積み重なり、結果、自動発生する弱肉強食、侵略略奪を繰り返す中、大勢の犠牲者がでたことも事実です。そうした緊張感高まる中で昨年に続き、今年もコロナ禍でのクリスマスを迎えました。

 二年続きの淋しいご降誕を迎え、下を向いてばかりでは余計に負のスパイラルに陥ってしまいます。「ご降誕」を下向きにではなく、直向き(ひたむき)に互いに支え助け合い、声かけ合い、コミュニケーションの輪にイエス様を真ん中にして、互いの糸の繋がりを確認しましょう。

 わたしたちは、独りで生きています。しかし、生きていられるのは、沢山の隣人の"おかげ"です。目に見えない"おかげ"に感謝するのは、難しいと思われるかもしれません。何故なら「おかげ」は、目に見えないから感謝できないのです。しかし、あなたの人生の中で「おかげ」のないことはありません。気づいていないから、忘れているから当たり前だと思い込んでいるのです。

 難しく考えることなんかありません。「気づく」ことは、誰にでもできることです。その「おかげ」に対して、心から「ありがとう!」の感謝の言葉を伝えるのです。この一言が社会に、隣人に気づきを与えるのです。"社会を変える"なんて大それたことを目標に考えたくありません。しかし、この一言が今の社会、あなたの隣人は必要としているし、放置すれば永久にこの世界から消えようとしているのです。失ってもいいですか。

 「ありがとう」この一言が、あなたを、私を、そして社会を変える、否、変わる大きな力の原点になるのです。私たちの挨拶の言葉、それは大切な人と人との交わりの糸なのです。

 イエス様は今日、落ち込んだ私たちの中に生まれて下さいました。み言葉が人となったイエス様を素直に受け入れ、声を出して「ありがとう」、そしてその言葉を隣人に繋いでいけますように。

 メリー・クリスマス!

 さあ!「ありがとう」の輪を、あなたも隣人へ!

参考:(第一朗読:イザヤ52・7~10)・(第二朗読:ヘブライ1・1~6)