そのとき、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
2022年1月1日のみ言葉は、イエスの誕生を天使たちによって知らされた羊飼いたちの、その後の行動について話されます。まず、羊飼いたちは天使たちが話したその出来事を確かめるため、その場所を探す彼らの行動から始まります。
天使の言葉、つまりみ言葉は、出来事となってこの世に現れたのです。羊飼いたちの思いは、私たちの思いと遜色ありません。「天使さんたちの言葉が本当かどうか確かめようじゃないか」、その信憑性の確認です。更に彼らの意図は、もう一つありました。もし確認できたら仲間に知らせることでした。
そこから羊飼いたちの喜びと大きな期待が、手に取るように理解できます。彼らは急いで告げられた場所に出向き、そこでマリアとヨセフ、そして聞いた通り飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を発見したのです。この喜び、この驚きは、計り知れないものだったでしょう。彼らのこの想いが、次のことばに表現されているのではないでしょうか。「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と。そのあと「マリアはこれらの出来事をすべて心におさめ・・」、そして「羊飼いたちは・・・帰って行った」と記述されています。
この記述には、少し違和感を感じます。羊飼いたちが告げられた場所には、すでに沢山の人々がいたことです。ここでイエスの誕生迄の話を思い出してください。イエスがお生まれになったのは、ベトレヘムの町、しかし、彼らには泊まる宿がなかった。そこでマリアとヨセフは、村の中心から、建ち並ぶ家から少し離れた場所でイエスは誕生したと推察されます。したがって、羊飼いたちは、住民登録に来て宿屋に泊まっていた他の人々に知らせたのだと思います。ところで、この羊飼い達の言動で一番驚いたのは、マリアとヨセフだったのではないでしょうか。人知れず、夫婦と生まれる幼子の、たった三人だけの寂しいその時が、一瞬にして賑やかになったのです。そして、マリアの不思議は、さらに増大すると同時に、み言葉が出来事のしるしによって、信憑性あるものになった事実の確信です。
羊飼いたちの喜び、彼らの期待、展望は、今日の日を境に一転するのです。
それから8日目、幼子は胎内に宿る前に天使たちから告げられた通り、イエスと名付けられました。おそらくマリアもヨセフもこの名前をつけるに当たって、もはや何も躊躇することはなかったでしょう。
新年の初めにあたり、このみ言葉を授かった私たちも羊飼いたちと同様、喜びと期待で満たされる年になるよう日々"誠実"に活かされますように。
参考:(第一朗読:民数記6・22ー27)・(第二朗読:ガラテヤ4・4ー7)
イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが12歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。3日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
今日の聖家族の祝日を機にキリスト者として、もう一度信仰の原点に戻ってご自身の戴いた信仰を確認し、さらに確信して戴ければ幸いです。
まずキリスト教の教典である聖書は、私たち人間の現実世界に背を向け絵空事で美辞麗句を綴った書ではないことです。現実離れどころか、むしろ神は私たち人間の貧しさ愚かさを熟知するも、常に一人ひとりに優しく、丁寧に対峙しながらご自身の傍に導こうとされる神と人間の交流の史実です。その史実を具体的に記したのが聖書であり、キリスト教の教典なのです。したがって歴代に渡り大勢の人々が、キリスト信者として存続可能なのは、神が人間に約束した掟を破っても、見捨てることなく更に人間に対する寵愛から神の独り子をこの世に贈ってくださったのです。
さて今日の福音では、天使から受胎告知されたマリアがイエスを出産した後、夫ヨセフとマリアの信仰のもとで育てられました。イエスが12歳になるその日、両親と連れ立って神殿詣をした時でした。参拝のあと何故かイエスだけが神殿に残り学者たちと話し合っていたのです。ところが参拝を済ませ家路に向かう両親は、イエスが一緒にいるものと思い1日分の帰路をすでに歩いていたのです。気づき慌てた両親は、1日分の帰路を探しながら戻るのに3日間を要したのです。
しかし当時、12歳の男子であれば、もう立派な男性だったのではないでしょうか(参考:江戸時代元服➡︎男子が成人となる式)。探し回る両親からイエスへの思いを窺い知ることが出来る場面でもあります。不思議な事は、イエスに向かって言ったマリアの言葉「何故こんなことをしてくれたのです・・・」と、それに対して「どうして私を捜したのですか・・・」と答えたイエスの言葉です。
当時の状況を少し想像すれば、ある程度理解できるかも知れません。大勢の人々の行き交う中、そして聖なる神殿の境内の一廓で学者達に囲まれ、その真ん中に座ってイエスが話している姿。おそらく両親は『あっ!何してるの?』と思い、焦って「何故こんな事をしてくれたのです。・・・」と安心と驚きの入り混じった複雑な面持ちでイエスに発した言葉のようです。ところがイエスは、その母が言った言葉を真摯に受け止め答えます。
この親子の遣り取りと学者たちの唖然とした姿が、目に飛び込んできませんか。なにか滑稽なシーンを見ているようでもあります。しかし、そんな慌てふためく両親の姿を見てイエスは、両親の内心を察したのでしょう。イエスは、マリアの言葉に対して「・・・知らなかったのですか」とそれ以上の言葉を言わず、迎えにきてくれた両親に素直に従いその場を去って行く、その姿にもこれから始まるご自身の道への強い信念、従順と謙遜、そして神への強い信頼を感じさせています。このイエスの姿勢から"受難、十字架上の死、そして復活"は、人類の罪の赦しと贖い、そして永遠の命に導くプロセスとして伝わってきます。
「戴いた信仰」ただイエス様に丸投げするのではなく、今年も私たちの中に生まれて下さったイエス様と共に、日々の生活の中で従順に、謙遜に歩めますように努めましょう。そして神様に対する確かな信頼を今日もう一度思い起こし、家族、共同体、社会、そして世界の人々との絆となるコミュニケーションを育みましょう。
参考:(第一朗読:サムエル上1・20~22、24~28)・(第二朗読:1ヨハネ3・1~2、21~24)
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムヘ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
幼子の誕生の知らせが、天使から野宿しながら羊の世話をする羊飼いたちに真っ先に告げられたとあります。権力社会の中で起こった見えない出来事は、矢張り人知れず、しかも貧しい羊飼いに知らされたのです。つまり「良い知らせ」を戴く条件として小さな者、貧しい者、人から相手にされない者、真面目に掟を守る者、素直に喜んで人に尽くす者へのご褒美として贈られるのでしょう。現代人も含めて多くの人は、目立たない人、目立たないものに対し殆ど関心を持たないし、相手にすることもありません。むしろ「時間の無駄」と判断し、避けることが多いでしょう。
ところが神の判断は、目立たないものに時間を費やすのは無駄と考える人と真逆の価値観であることに気付きます。羊飼いたちも、正直、天使から幼な子の誕生を告げられましたが、乳飲み子を発見するまで疑心暗鬼だったかも知れません。しかし、彼らは天使から告げられたその通りだったので驚いたでしょう。そして、その事を正直にマリアとヨセフに話したのです。話されたヨゼフとマリアは、おそらくこれまでの出来事すべてを思い起こし、偶然にしてはあまりにも不思議なことが続きすぎることに驚いている光景が記述されます。それがマリアのとった態度「出来事すべて心に納めて、思い巡らしていた」という記述から推察できます。
誰にでもそれぞれ不思議な出来事との遭遇体験を持っています。人生の中での節目節目に、なぜか不思議な出来事を体験する人は、少なくありません。そのことに気付き、素早く対応する人、しない人、人それぞれです。しかし、それらを振り返る時、なぜかその体験から不思議のままでなく、それまで理解できなかったことが、出来事を体験したことによって、その意味を教えられることがあります。
今日、あなたも体験した不思議な出来事、その意味を気づかせて戴けるよう丁寧に、謙遜にその当時を振り返ってみませんか。きっと何かあなたへの素晴らしいメッセージに気づかされるかもしれません。
参考:(第一朗読:イザヤ62・11~12)・(第二朗読:テトス3・4~7)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
<神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
<ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。>
現代社会の問題の根底にあるのは、自己中心、私利私欲、更に自国優先経済至上主義によって形成された大きな要因であると思います。自国優先経済至上主義の損得勘定、勝ち負けから生じる価値観は、自己中心的な考えの増幅、隣人に対する無関心・無感動を生み、その結果、人間の心と同時に地球をも荒廃へと導いています。また、先人達の培ってきた素晴らしい文化・伝統を踏みにじり、人間にとって忘れてはならない大切な"思いやり"まで取り去ってしまうのです。
社会の汚染の発端は、「聖職者(教師・医者・僧侶)の堕落」から始まったと言われました。そして現在の気候変動の原因は、人類の過激な競争によって生じていると言われます。つまり、すべての汚染は、人間の内側と外側から人為的に行われているのです。その原因は"自我"、つまり"原罪"ではないでしょうか。
今日の問題は、長い年月かけて人類によって作り上げられたのです。大勢の人間の欲が積み重なり、結果、自動発生する弱肉強食、侵略略奪を繰り返す中、大勢の犠牲者がでたことも事実です。そうした緊張感高まる中で昨年に続き、今年もコロナ禍でのクリスマスを迎えました。
二年続きの淋しいご降誕を迎え、下を向いてばかりでは余計に負のスパイラルに陥ってしまいます。「ご降誕」を下向きにではなく、直向き(ひたむき)に互いに支え助け合い、声かけ合い、コミュニケーションの輪にイエス様を真ん中にして、互いの糸の繋がりを確認しましょう。
わたしたちは、独りで生きています。しかし、生きていられるのは、沢山の隣人の"おかげ"です。目に見えない"おかげ"に感謝するのは、難しいと思われるかもしれません。何故なら「おかげ」は、目に見えないから感謝できないのです。しかし、あなたの人生の中で「おかげ」のないことはありません。気づいていないから、忘れているから当たり前だと思い込んでいるのです。
難しく考えることなんかありません。「気づく」ことは、誰にでもできることです。その「おかげ」に対して、心から「ありがとう!」の感謝の言葉を伝えるのです。この一言が社会に、隣人に気づきを与えるのです。"社会を変える"なんて大それたことを目標に考えたくありません。しかし、この一言が今の社会、あなたの隣人は必要としているし、放置すれば永久にこの世界から消えようとしているのです。失ってもいいですか。
「ありがとう」この一言が、あなたを、私を、そして社会を変える、否、変わる大きな力の原点になるのです。私たちの挨拶の言葉、それは大切な人と人との交わりの糸なのです。
イエス様は今日、落ち込んだ私たちの中に生まれて下さいました。み言葉が人となったイエス様を素直に受け入れ、声を出して「ありがとう」、そしてその言葉を隣人に繋いでいけますように。
メリー・クリスマス!
さあ!「ありがとう」の輪を、あなたも隣人へ!
参考:(第一朗読:イザヤ52・7~10)・(第二朗読:ヘブライ1・1~6)
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニゥスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に『住民登録』の勅令が出た」で始まるこの箇所から、皇帝が独裁者である事を知らされます。現代においても某国では、似たような状況を報じています。つまり、皇帝の勅令に反対したら大事件です。だから全ての住民は、「ノー」も言えず生まれ故郷へ住民登録のために帰省しなければならなかったのです。"帰省"というと嬉しい楽しい事ですが、マリアとヨゼフの場合は全く異なります。マリアはすでに臨月、大変な時なのです。しかし、聖書ではマリアの体調について「身籠っていた」「月が満ちて、初めての子を産み・・・」とまるで動物が生まれるような浅薄な言葉で記述します。これは福音史家の強調点がここではなく、「飼い葉桶」"貧しさ"に焦点を当てるからでしょう。またルカ福音書全体は、非常に絵画的に描かれていると思います。したがって、この箇所も読む人の想像力を一層掻き立たせ、最小限度の言語表現でそれを活かそうとしていたのかもしれません。
それを前提に今日の箇所を読んでいくと非常に大きなスケールで描写されていることに気づかされます。そして、それに対峙して"貧しさ"が、対照的に人の目に隠れるように書かれていることに気づきます。身籠ったマリアは、心配そうなヨゼフに守られ、直線距離にして120km余、おそらく170km以上の距離を徒歩で(絵画にはロバor馬に乗る姿?)ベトレヘム迄行った。想像するだけで無理、無茶な事だと考えさせられます。しかし、その無茶をしなければならなかったのです。身重な体に鞭打って、幼子が道中で生まれるかもしれない事を気遣いながら慎重に、大切に介添えしながらヨセフは、常にマリアの顔を見ながら歩んでいたでしょう。そして、やっと辿り着いたベツレヘムで宿泊場所を探したが、「彼らの泊まる場所がなかった」とあります。
貧困、苦労、無視、貧しさゆえに背負わなければならない運命とするのか、あるいは自己中心、利益優先社会では、評価しない、無視する現況社会の訴えなのか。この現実は古今東西、全く同じ現状を表現しています。それが、貧困、苦労、無視という隅っこに追いやられた小さな事として扱われるマリアとヨセフの姿ではないのだろうか。しかし、その小さな中にこそ本当に大切なもの、大切な宝のある事が「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」ではないのか。"しるし"、それは誰でも発見できるものですが、誰にも発見できないものです。謙虚な心を持たず小さな事にも心を向けない人には、決して気づきが与えられないからです。
クリスマスの夜、私たちはコロナ禍を体験して沢山の気づきを頂戴したと思います。その確認が今夜のメッセージで発見できたのではないでしょうか。
メリー・クリスマス!新たな心で目立つことのない小さなものに、目を向けることのできる人になれますように。
参考:(第一朗読:イザヤ9・1~3、5~6))・(第二朗読:テトス2・11~14)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
今日の箇所は、冒頭から不思議な記述で始まります。まず、マリアはお手伝いする為に親戚のエリザベトの家に行きます。しかし、エリザベトだけでなくマリアも身籠っていました。ただ少しエリザベトの方が早かっただけです。そこでマリアが住んでいた場所ナザレからユダの町までは相当離れていたにもかかわらず、まるで近くにお買い物に出かける様な短い言葉で綴っています。これはどうしてなのでしょうか?
もう一つの不思議は、「マリアの挨拶をエリザベトが聞いた時、その胎内の子がおどった」という表現です。本当に挨拶しただけで"踊った"のでしょうか?
その後エリザベトの言葉です。「私の主のお母さまが私のところに来た」といった言葉です。どうして主のお母さまだと解ったのでしょうか?これら三つは、不可思議な表現であると思います。
注釈書では次の様に記されます。最初の不思議は、神の救いの計画を知らされたマリアが、親戚のエリザベトとその恵みを早く分かち合いたいというマリアの喜び、その事実を遠い距離を短く記述してその気持ちを表現したとあります。
そして二つ目は、大人になってからの洗礼者ヨハネとイエスの関係を反映しているという事です。つまり、エリザベトは一人の民でもあり、民である彼らの反応する姿として描写しているのです。そしてエリザベトが、"マリアの胎内に主となるイエスを宿している"のを知る為に、胎内のヨハネがイエスを紹介する為に喜び踊ったからだそうです。そこでエリザベトがマリアに祝福の言葉を述べたのは、その子を宿したマリアを神の子のお母様と信じたからです。
勿論、確信し祝福したのは、聖霊に満ちたエリザベトからでしたが、内実は聖霊からのものです。現実を確信したエリザベトは、感激と同時に神への感謝の言葉としてマリアに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」と語られたのです。
この大きな出来事は、マリアがエリザベトに「挨拶」した事から始まりました。マリアの挨拶を聞いたエリザベトでしたが、それを一番早く反応したのは"胎内の子"でした。その反応によってエリザベトが気づくことになったのです。その"気づき"とは、神の子との出会いでした。つまり、主であるイエスを宿したマリアとの出会いでした。そのキッカケは、「挨拶」でした。しかもその挨拶は、普通日常的に交わす挨拶とは異なり、神の祝福を運ぶ契機となるものでした。神の祝福を運ぶ挨拶とは、聖霊の力であります。なぜなら聖霊はいつも人知れず働き、その働きを聖霊だと認識できるのは、明らかに何らかの出来事が発生し、その出来事を再確認した場合に限られるからです。
待降節、あなたも神への信頼に繋がる「挨拶」を、先ずあなたの隣人から始めませんか。きっとあなたも聖霊に満たされますよ。
参考:(第一朗読:ミカ5・1~4a)・(第二朗読:ヘブライ10・5~10)
そのとき、群衆はヨハネに、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
今日の福音箇所は、洗礼者ヨハネの "悔い改め"への呼びかけに対して、"改心"するにはどうすれば良いかと聞きに来た群衆に対して語ります。「私たちはどうすれば良いのか」という群衆の質問に対してヨハネは、具体的に話します。しかし、群衆のその質問の思惑には、二つの疑い①責任回避②自己弁護を含蓄した問いに聞こえて来ます。なぜならその質問は、個人的な改心として尋ねているからです。群衆の質問に対してヨハネは、"持っていない人に分かち合いなさい"と。徴税人へは、"税金を規定以上取らない様に"と。そして兵士に対しては、"人からお金を取り上げるな、自分の給料で満足しろ"と言われました。
この職種別による各々への返答から察すると、当時差別社会、格差社会であったこと、さらに権力主義社会であることが窺えます。それに対してヨハネの答えは、ものが有り余る人に対して物がない人へ分かち合うこと、また不正に対しては早急に是正すること、権威、権力に対しては不正で得る金銭でなく与えられた金銭で満足する様にと勧めます。これらから見識するとき、当事者達にとってそれ程無理する様な修正行為でもなく、締め付けることも裁くこともない常識的な実践を勧めていることから、ヨハネに質問した側も十分納得できる答えを得られたのではないでしょうか。
現代において、時々、◯︎◯ファーストと称し、それに該当しないもの全てを排除する様な政策、方針が優先されます。それはあたかも正論であるかの様に民衆を引きつけるような手段で誤魔化す人の多いのに呆れますが、洗礼者ヨハネの答えからは、その様な邪悪な考えは欠片も見えません。そこで彼らはヨハネに対して「彼はひょっとしたらメシアかも知れない」と思ったのでしょう。
彼らの心を読んだヨハネは、すかさず彼らに「私よりも優れた方が来られる。・・・その方は聖霊と火であなた達に洗礼を授ける」と公言されます。ただその方は誰であるのか、何が具体的に優れているのか、その詳細について此処では何も話されません。それは洗礼者ヨハネが、まだイエスの生涯について何も知らないからでしょう。ただ洗礼者ヨハネの真摯な証しは、大勢の人々から"この人はメシアではないか"と思われるくらい彼の容姿、話の内容、行動から判断されたのでしょう。にもかかわらず、「私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない」と言われた謙虚な言葉は、神への深い信頼と従順さに感銘させられます。
私達も洗礼者ヨハネの様に揺らぐことのない神への信頼を築く待降節に努めましょう。
参考:(第一朗読:ゼファニヤ3・14~17)・(第二朗読:フィリピ4・4~7)
皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。当時の慣用文としてよく使われたらしい献呈の言葉から冒頭が始まります。それは読み人に当時のご時世を理解させること、そして洗礼者ヨハネとイエスの誕生をより一層、リアリティーにする為のようです。そこでこの献呈の言葉を用いてルカ福音史家は、荒れ野にいたザカリアの子ヨハネを強調させるため、意図的に当時の慣用文を使用したらしいのです。なぜなら「このような時代において神の言葉が降ったのは、当時の権力者たちにではなく、貧しい生活をしながらも熱心に神の到来を告げる洗礼者ヨハネだった」ということだからです。
ここに全ての人への問いかけを、この待降節に響かせていくようです。「真の神の言葉は、この世で偉い人やお金持ちの人、繰り返し悪いことを重ねても一向に悔い改めない人に"幸せを運ぶその言葉"は、届くことがないのですよ」と。
洗礼者ヨハネは、自身の使命である人々に対する罪の赦しのために、その悔い改めの"しるし"となる洗礼を授けるため活動していました。その活動の姿から今日の福音は、イザヤ書を引用して洗礼者ヨハネの使命を語ります。その内容を深読し、洗礼者ヨハネの姿と重ねると観えてくるのは、悔い改めにとって"大切なことは何か"ということです。
これまで私たちは、"悔い改める"ということについて、まず自分自身の言動その事を主に考え、そこで気づかされたものから不承不承、それらの修正に心懸けるというのが一般的な様に思いますし、そうする様に教えられていたからです。しかし、イザヤ書のこの箇所をよく読むと「荒れ野で叫ぶものの声」とは一体誰なのか。そして「その道をまっすぐにせよ」という命令に対して、谷が埋められ、低くされ、まっすぐに、平らになりました。その後「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言われています。この叫ぶものの声とは、神が選ばれた人である洗礼者ヨハネであることがわかります。しかし、改めるのは呼びかけ人である洗礼者ヨハネではなく、彼を遣わした神ということになります。
つまり、悔い改めるということは、人間の愚かな言動ではなく、神が指摘されるすべての方向であることが判ります。ここにカトリック教会で"かいしん"の漢字が改心ではなく"回心"というその理由を納得することができるでしょう。現代社会において、一番必要とされているのが「回心」であり、互いに「改心」でせめぎ合うことではないのです。世界中のまず権力者自ら「回心」することによって、世界に平和をもたらし、その権力者達が期待している"ノーベル平和賞"が受賞できる名誉な日を迎えるのではないでしょうか。この待降節、特に自分自身の回心のために努めましょう。
参考:(第一朗読:バルク5・1~9)・(第二朗読:フィリピ1・4~6、8~~11)