2021年09月25日の聖書の言葉

9月26日 年間第26主日「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(マルコ 9:40)

 今日の福音箇所は、イエスのみ旨、否、神のみ旨であるすべての民へ、神のみ言葉を宣べ伝えること、それが弟子たちによって"限られた民"にだけへと変えられることへの注意のように感じます。つまり、弟子たちは確かに、イエスの弟子として、イエスに従いイエスと共に生活しています。そうした環境の中で生活する弟子たちは、自分たちとイエスの繋がりは切っても切れない間柄、何故なら自分たちはイエスに対し献身的に仕えており、イエスもその自分たちを認めています。だから「イエスの名を使う」ことができるのは、自分たち以外の者であってはならないのです。そうした弟子たちの中で自然に作られていったイエスに対する思い込み、奢り、プライド、そのことに対してイエスは、弟子たちに気づいて欲しかった。イエスご自身の名は、弟子たちの管理下にあるのではなく、弟子たちこそがイエスの名の下にあること、その事実を弟子たちが認識していなかったからです。そこでイエスは、ご自分との繋がりをつまずかせるものが、何かを地獄の譬えを持って語られたのです。

 何故地獄の譬えを用いられたのか、それはイエスご自身、どうしても弟子たちに神との断絶を避けて欲しい、間違った決断をして永遠の滅亡を招くようになって欲しくない、つまり、"避けさせる手段"であったからです。

 

 さてこの箇所は、終末論で学んだ特別な箇所であることを思い出しました。「裁き、審判」今日の福音箇所を読まれた方は、すぐにお気づきになられていると思います。先の箇所で永遠の命を受けるためには、つまり、救われるためには何をしたらいいですか。との問いに対してイエスは「私に従いなさい」と言われます。"従うか従わないか、信じるか信じないか"、それは神の国のために決断するかしないかによって、その人の行く末がかかっていると言われています。この箇所に基づいているのが教義の中にある「私審判」(死後直ちに受けるもので永遠の賞罰になる)と「公審判」(世の終わりにすべての人が公に受けるもので、神の計画がどのように実現されたか、その評価がされる)であることを学びました。また聖書の中で「裁き、審判」が譬えを用いるのは、それらを表現しにくいからと言われます。何故なら裁きは、取り返しがつかないものであり、裁判官によって裁かれることではなく、当人の決断によるものだからです。正直、この箇所を終末論で学んだことは、良かった反面、いつも良心から恐怖心を煽られる根源になっていることも事実です。

 あなたはどう感じられていますか。