さてフィリッポ・カイサリア地方からガリラヤ地方を通ってカファルナウムに戻ってきたイエスと弟子たち。帰路の途上、イエスは人に気づかれたくなかったとある。何故なのだろうか。聖書には、弟子たちにご自身の受難と死について話されたからとある。でもどうしてだろう。ここも不思議な箇所である。弟子たちはイエスに尋ねることを恐れていたと記述されている。しかし、帰還途中の道で会う人々にそれを知るすべはない。聖書解釈本には、次のように記されている。「群衆との断絶を意図したからではなく、重要な受難の問題に関する弟子たちの教育に力を集中するため」とある。ここにも弟子たちへの"イエスの思い"とは反対に、ただ弟子達は"受難予告"の意味について尋ねることを「恐れた」と記述されているように彼らの"イエスの思い"に対する無理解が強調される。そのような思いを引きずって家に戻ったイエスは、弟子たちへ真っ先に質問する「途中で何を議論していたのか」と。そこでイエスは、「一番先になりたい者は、・・・・すべての人に仕えるものになれ」と言う。
イエスの言う「仕える」とは、すべての人に奉仕することであり、全ての人の一番下の者・奴隷となることである。そしてさらにイエスは、子供の手を取って「このような子供を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、それはまた私を遣わされた方を受け入れると語られた。ここからイエスに従うとは、イエスに「仕える」こと、「受け入れる」とは、すべての人に仕え、すべての人を受け入れることなのである。なぜならイエスご自身がその目的のために十字架につけられるからである。
現在社会において、このイエスの言葉を真摯に受け止め、信仰生活をされる大勢の方々がおられることに感動と敬意を表する。しかしその一方で、この方々にとって有難迷惑なことが教会内で起こっていることも聞かされる。人間とは何処の世界も皆同じだと思われることに異論はないが、少数の方の間違った言動で普遍化されることに疑問を感じる。つまり、真摯な信仰生活者の奉仕の精神からなる言動に対する"嫉妬、妬み"からなる誹謗中傷、現在ではSNSによる拡散で正直、善の行為が損なわれる、否、崩壊させられている。み言葉は神と人のつながりを深め、人との繋がりを広げるものと思いきや、現実はどこか間違った方向に向いていないだろうか。あなたの教会は、大丈夫ですか。