今日の福音に至るまでのイエスとその周りの人々の態度を見るとき、はっきりと見えて来るものに気づかされる。それはイエスがカファルナウムでの宣教から離れ、ティルス、シドン、デカポリス地方、そしてガリラヤ湖・ベトサイダ、フィリポ・カイサリア地方への宣教移動である。それらの地方や町々は、ユダヤ人の町と異邦人の町に分かれている。特徴的なのは、異邦人の町々でのイエスは、率先して癒しを行い、また奇跡を行なっている。それに対してユダヤ人の町では、ファリサイ派の人からイエスは「天からのしるし」を要求される。そして弟子に至っては、未だパンの奇跡の意味を理解出来ない。イエスは権力者・支配者から解放する力を持つ有力な次期リーダーとしか考えていない。一方弟子たちは、イエスが十字架に架けられて命を捧げるメシアだと、誰一人思っていない。そんな折、イエスは弟子たちに"真のメシア"を理解させるために、ご自身がこれから歩む道、受難・死について話された。ところが弟子たちは、「とんでもない。そんなことはありえない」と一蹴。その弟子の代表ペトロは、イエスを諌め始める。
そこでイエスは、弟子たちを前にペトロに向かって「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られた。さらに群衆も集めて語られたのが「私の後に従いたいものは、自分を捨て・・・」と。この自分とは、人の心の内であり、人そのものである。つまり、自分自身の心の思い・損得感情を指している。イエスはその計算高い自分を捨てなさいと。
またイエスの言う"自分の十字架を担う"とは、人が生まれながら背負っている「神の人に対する思い」であって、その神の思いに生きる事こそ、イエスに従うことであり、自分の命を救うことになると言われるのである。
ではその「神の思い」とは何か。それが分かっていれば、弟子たちもペトロもイエスに叱られることはなかった。なぜイエスは、「神の思い」、それがなんであるかを弟子たちに教えないのか。その理由は、人が知識として学ぶことではなく、生活を通して体を使って体得するものだからである。まず祈りによる「神との深い交わり」、それを通して得られる神の御計画を認知し、その認知を生活の中で実践する。その積み重ねから徐々に"神の思い"を悟らされるのでしょう。
信仰、それは真に「行いが伴わなければ、死んだものです」と言うことである。では何でも実践していれば、それで良いのか。確かに、実践することは大切である。しかし、実践する最中で私利私欲の心が潜んでいれば、神は思いもよらない方法で、その善悪を知らされる。したがって、行いの善悪を祈りにおいて識別することを求められるのである。