この箇所は、イエスの宣教地移動で地理的場所が、非常に不可解であること。聖書を読む際、イエスが今どこにいて、どのような状況下で、誰に話しているのか、注視する者にとって、非常に不思議な箇所である。地中海沿岸の町ティルスからシドン、そしてデカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖への移動の記述である。聖書注釈書でも、聖書学者雨宮師も同じことを書いている。何故このような記述になったのか。聖書注解書では、「イエスが異邦人の地であるデカポリスで、耳の聞けなく舌の回らない人を癒した」ことを伝えたいこと。また雨宮師は、「ユダヤ人と異邦人」、つまり「昔の人の言い伝えに固執する人達とイエスを受け入れる人達との比較」目的から、こうした記述をあえてしていると言われる。いずれにしてもマルコ福音史家は、何かを伝えたいのである。
今日の箇所でイエスは、異邦人であれ、ユダヤ人であれ、その人の信仰に応えて、奇跡を実行している。なぜなら奇跡のしるし・神の愛は人を分け隔てしない平等な愛のしるしだからである。したがって「イエスの行う奇跡は神の力とその愛を示すしるしであり神への招きである」 (雨宮師) と言う。
地理的問題はさておき、イエスの今日の奇跡には人を選ばない神の愛、万民に神の愛が向けられている。と同時にすべての人が望めば奇跡さえも実行されることに喜びを感じる箇所である。耳の聞こえない人、口のきけない人を話せるようにされる神の力。それは現代社会にも同様に向けられている。希望の光を見えなくしている厳しい現代において、今日のイエスは何を語ってくれるのか。とかくルールに縛られがちな生活を強いられている現代人にあって、縛られるあまり大切な"人への思いやり、人との分かち合い、人との共同作業など"疎かになっていないだろうか。共通理解するためには、日々の生活を通して地道にこれらを実践することが、新たな力、新たな創造、新たな作業・実践へと繋がるのである。相手の言葉を無視、相手との会話を無視、共同作業・貢献・協力無視では、明日への意欲、希望、喜びを感じることはまずありえない。
自分の聞こえなかったものは何、自分が言葉にできなかったこと、話せなかったことは何ですか。正直に、イエスに向かって自分の中にある「足枷である自尊心」と向き合い、大変ですが、漸次取り除く作業を始めましょう。それらが耳を塞ぎ、口をきけないものにしているのだから。自己の変化によって、周りも変わる。自然も一緒になって変貌するから。