2021年08月21日の聖書の言葉

8月22日 年間第21主日「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6・67)

 イエスの言葉、それに対してユダヤ人の「実にひどい話だ」と"つぶやき"、多くの弟子たちがイエスから離れ去っていったと記述されます。初めは群衆、そしてユダヤ人、最後に弟子たち、その弟子たちは自分たちの要求や主張が満たされなかった為、イエスから去って行くのです。パンの奇跡の後、大勢の群衆が、ユダヤ人が、そして弟子たちに変わった呼び名の人々。彼らはイエスと出会ってからも自分の知識に固執していました。彼らの姿勢、要求、そして自分の主張が満たされない時、相手を誹謗中傷する"つぶやき"、それは彼らの自尊心を、プライドを守る手段として取られたのです。しかし、どうしてこれまでイエスに従ってきた人々が、それほどまでに"つぶやく"ことになったのか。それは「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。・・・このパンを食べる者は永遠に生きる」と言い放った言葉が、発端になっています。話した相手は、パンの奇跡にも立ち会ったイエスに従っていた弟子たちです。なぜ弟子たちは、イエスの言葉に・・・。

 64節のイエスの言葉から、私の言葉を信じるか信じないかによって、人が二つに区別されることを宣告されます。イエスが伝えようとする真理は、言葉の受け取る側の主体性、自由に委ねられると言われます。またイエスは神と同じすべてを見通す力を持っています。また聖霊の働きがなければ、誰もイエスを信じると告白できないとも言われるのです。なぜイエスは、このような理解に苦しむ言葉をあえて弟子に向かって発言されたのでしょうか。

 パンの奇跡の場面に戻ってみましょう。ここで大勢の群衆と弟子たちは、イエスからパンと魚を十分に頂戴しました。それによって彼らは満足しました。しかし、イエスの思いとは随分かけ離れていたのです。「人はパンだけで腹を満たすことが大切な事ではなく、その内実であるイエス・キリストの贖罪と復活信仰を持って、キリストの体にあずかること、それは聖霊の働きによってのみ可能となるが、これに対する信仰がなければ、いくらパンを食べても何の役にも立たないと言われるのです」(新共同訳聖書注解書)。またイエスを裏切る者の代表として、イスカリオテのユダが象徴的に扱われています。それは十二使徒の一人であってもイエスを裏切ることになったということです。それと同じように現代社会でも、熱心で真面目な人と思い込んでいた方であっても去って行かれる方もいるということを示唆しています。見えない神の存在をイエスのみ言葉と"しるし"を通して「信じる」者になりなさいということでしょう。