今日の福音箇所は、マグニフィカト・聖母の賛歌(46-55)が中心となっています。聖書学者雨宮師によるとこの賛歌は、二つの段落に分けられると言われます。①47-50節、「救い主である神と私(マリア)との関係」を記述。②51-55節「主の憐れみは主を畏れるアブラハムとその子孫に代々に限りなくとこしえに及ぶ」と記述。そこから「『主のはしため』の個人的な体験は、人類に共通の普遍的な体験の代表例です」と言われます。
この賛歌は、マリアご自身の体験から、神の憐れみは代々に限りなく、主を畏れるものに及ぶことを主張します。つまり、マリアの賛歌は「主の憐れみ」が主題になっていることです。さてマリアが、これほどの賛歌を歌うその契機は、何であったのか。それがこの賛歌の前に記述されています。それは、親戚のエリザベトとの出会いです。"出会い"といっても、ここでは偶然の出会いではないことが自明です。しかし、エリザベトがマリアと会って"聖霊"に満たされると言う大きな変化がもたらされるのです。したがって、エリザベトとマリアの出会いは、普通の出会いではなく、"聖霊の働き"が伴った出会いなのです。それによって、彼女たちの交わされる挨拶は、特別な"神の祝福"を運ぶ挨拶なのです。エリザベトは、マリアが主のお母様になることを認知できるのも"聖霊の働き"によるものなのです。そこでマリアから挨拶を受けたエリザベトは、すでに大きくなっていたご自身の胎内の子が、喜び踊ったと記述されます。それはマリアにも身ごもっている子が「救い主」であることを確信させる"しるし"となったのです。この驚き、この喜びは、「我を忘れる」程の喜びなのです。これが出来るのは、自分の全てを投げ出しても、それを確実に受け止めてくれる方がいる、そのことをハッキリと確信できるから、エリザベト自身とることのできた表現だったのです。
"我を忘れる"といった単純で素朴な時代は、いつの日か知らないうちに私たちの中から消えてしまっていないだろうか。現在は我を忘れる程、喜び踊るようなことを見出すのが、難しい冷たい時代になっていないでしょうか。現代社会に生きる私たちにとって、今日のエリザベトとマリアの出会い、その喜びを共有することによって、私たちにも信仰とは何か、神の憐れみとは何かに気づかされ"我を忘れる"喜びを感じることが出来ますように。