2021年08月07日の聖書の言葉

8月8日 年間第19主日「わたしは天から降って来たパンである」(ヨハネ6・41)

 ユダヤ人たちは、イエスが「私は天からくだって来たパンである」と言われ、イエスのことでつぶやき始めたとあります。福音書の前の節に戻ると、これまでイエスを追っ掛けていた人々は、ガリラヤの群衆と記述しています。ところが今日の箇所では、"ユダヤ人たち"に変えられていることです。これは登場する人種が変わったのではなく、ただ呼称を変えているのです。ヨハネ福音書で特にユダヤ人は、イエスの敵対者として扱われています。その関係でこの箇所では、あえてガリラヤ人・群衆ではなく、ユダヤ人として記述されているのです。またもう一つは、「私は天からくだって来たパン・・」とイエスが言ったのに対してユダヤ人たちは、「我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天からくだって来た』などというのか」とユダヤ人のつぶやきには、"天から降って来た"というだけで"パン"が抜けていることです。これはユダヤ人の関心が、イエスの本性(神の子)そのものよりも、イエスが"何処から来たのか"という出生だけに向けられている(聖書学者雨宮師)ことです。ユダヤ人はイエスの出生への拘り、つまり、自分たちの培った知識に固執している事なのです。イエスはご自身とその自分が神の仲介者であること、それに気づいて欲しいのですが、ユダヤ人のように自分の知識だけに執着するあまり、イエスの"本性・イエスが真に何者であるのか"を理解する事が益々出来なくなっていくのです。

 今日の福音の中では、ユダヤ人のイエスに対する敵対性をよく表現しているのは、「つぶやき」この言葉です。

 "つぶやく"とは、小さな声で独り言を言うことですが、今日の箇所では、"ユダヤ人たちの要求や主張が満たされていない"との意味を含蓄した言葉として使われています。このようにユダヤ人に見られる自分の知識にだけ固執した姿勢、そして自己の要求、主張が満たされない時、相手への誹謗中傷を"つぶやき"として発せられる実態、これらは私たちにも身に覚えのあることではないでしょうか。自分の培った固定観念を崩す、離れる、そして新たに正しいことへ是正すると理屈で解っていたとしても、大変難しいことなのです。ましてやイエスの言葉を受け入れることは、心底から信仰の心を持たなければ素直に受け入れる事はできないでしょう。しかし、イエスは断言されます。「はっきり言っておく。信じるものは永遠の命を得ている。私は命のパンである」と。

 先ず、私の、あなたの固定観念への執着から離脱することができますように。