2021年06月20日の聖書の言葉

年間第12主日「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4:40)

 イエス様は、弟子たちと最後に別れる時、信じる者には、それに伴う"しるし"が伴うと言われました。つまり、イエス様は全ての者のためにご自身の命を民の罪の赦しと贖いのために捧げて下さいました。イエス様がキリストの死を死ぬことが出来たのは、全てを従わせる方を信頼していたからだと聖書学者の雨宮師は言われます。確かにまだこの段階では、弟子たちにはそのことが証されていません。しかし、ご存知のように新約聖書は、イエス様の十字架上の死後、復活され、昇天されたのちに記された書であり、復活信仰を基に記されています。そのことを踏まえ、この復活の視点から福音書を観ていくと、イエス様の言葉の意味が理解できるのではないでしょうか。

 そこで今日の福音個所を観ますと、舞台はガリラヤ湖、そして弟子たちとイエスは、舟に乗って湖を渡って、向こう岸へ行くために乗り込みました。聖書の中で湖は、この世・現実世界を表していると言われます。また弟子たちの乗った舟は、教会を表現しているとも言われます。つまり、弟子たちはイエスの言葉を信じて舟に乗り現実世界を渡る教会の舟を表しているのです。ガリラヤ湖は、地形的によく風が吹き荒れると聞いています。弟子たちを乗せて、もうすでに岸から離れた舟は、その酷い風に悩まされていたことが記されています。ところが同舟したイエスは、そのような厳しい環境であっても平穏な姿勢を変える事がありませんでした。いまにも転覆しそうな舟の中で慌てふためく弟子たち、それをよそに艫を枕に平然と寝ているイエスを対照的に描く今日の福音箇所は強いインパクトを与えます。

 「どうして?」ここにイエスの神に対する信頼度とまだ神への信頼度の低い弟子たちが浮き彫りにされます。それはイエスの弟子たちへの言葉から推測できます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」"怖がる"とは、臆病という意味もありますが、聖書の中で怖がるとは"不信仰"を意味しているのです。つまり、弟子たちはまだ神に委ねる心がなかったという事です。イエスの平穏な姿勢は、全てを神に委ねるその信仰が根元にあると言う事です。神への信頼の有る無しが、イエスと弟子たちのこの世における様々な試練に対する姿勢を表現しています。あなたが現実世界の中で厳しい試練に遭遇したら、どのような姿勢をとられますか。イエスの信頼する神への信仰を少しでも学んでいく事ができますように。