イエスと弟子たちの「過越の食事」は、特別な食事、しかも最後であることを明言します(14:25)。新約聖書では、エジプトからの解放で死から命へと導いた神が、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」としています。"新しい"という意味は、それまで神の救いの業を記念として祝っていた過越の食事ではなく、それを遙かに超えた過越を祝う食事だということです。つまり、パンが裂かれ、ぶどう酒が飲まれるところには、神の救いの業が現実となることを話されたのです(聖書学者・雨宮師)。
さて、今日の福音の中でイエスは、過越の食事をする場所を弟子に手配させます。しかし、イエスの手配の仕方は、普通でないやり方です。当然のことながら、それを命じられた弟子たちは、イエスが事前に手配していたのではないかと思わせるような雰囲気が漂う話です。何故、イエスはそのような仕方を弟子に伝えたのだろうか。多分イエスは、ご自分に迫っている危機を予感し、受難が近づいたことを察知していた。そこで、弟子以外の部外者に知られず、弟子達だけと食事をしたかった。それは最後の晩餐だから弟子たち以外の者に邪魔されず、ご自身の愛を晩餐で直接伝えたかったのではないでしょうか。そのイエスの最後の晩餐での弟子たちに対して示した愛の証言が、「これはわたしの体である」=「これはわたしだ」という。これを食べることでイエスと一つに結ばれることですと。そして「これはわたしの血、・・・契約の血である」「契約」と「血」は切り離せないものです。それは、契約がお互いの血を賭けたもの=命がけのものであると表現するのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」と似ています。唯、イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚しています。その救いを体験した民は、神との特別な関係を生きることになるのです。これを表すのが「契約」という言葉なのです。
この「新しい契約」がイエスの死によって実現しました。というのが新約聖書の中心テーマです。その意味は、イエスが世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとした。つまり「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とは、受難を予告する言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」と付加することによって、最終的な完成に向かう意識が強調されます。「新しい契約」は、確かにイエスによって実現されました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは、いつか来る将来のことだとも言えます。そこに向かって歩み続ける力の糧として、ご聖体が与えられているのです。そのことをしっかりと理解して、ご聖体を拝領したいですね。