2021年05月09日の聖書の言葉

復活節第六主日「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)

 今日の福音は、まさにイエスが生涯、弟子たちに、すべての人に日々の生活を通して証しされたことを言葉で証言されます。それはまた神のみ旨であり「わたしの掟である」と言われます。なぜなら神は愛だからです。さらに最後にイエスがすべての人にご自身の命を捧げられたように、友のため、つまり人のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はないと言われます。

 確かに、イエスはわたしたち人類のために、ご自身の命を捧げてくださいました。だからと言って、私たちも自分の命を捧げられるだろうか。まして誰も知らない人のために、例え自分の身内であったとしても、あなたは捧げることができますか。もし問われた場合、正直、"出来ます"と答える方は、いるだろうか。しかし、イエスは出来る人なら、その人はわたしの"友である"と言います。そこに焦点を絞ると、ある事に気づかされます。

 当時、弟子たちは、イエスと共にいる間、何も出来なかった。しかし、イエスにとって最高の弟子であり、最高の友であった。出来なかったその弟子たちを「友」とも呼ばれています。ということはイエスの言う「自分の命」とは何を指して言われるのか。当然のこととして、弟子たちが自分の命を捧げられないことを十分知っておられたはずです。にもかかわらず、そのように話されたのは、人や物事に接する時、相手に身勝手な思い込みを抱くことなく、また相手を外観で、肩書きで判断しないこと。同時に、自分も相手も「ありのまま」を見て、ありのままをさらけ出すことが大切であることを言われているのでしょう。

 その究極的なイエスの愛で解釈をするならば、すぐに命を捨てることは出来なくても、私・イエスにつながっていれば、それに値する相応しい愛徳を実践する「友」になるだろうと確信して「わたしがあなたがたを選びました」と語られたのだと思います。そして最後に、イエスの厳しい言葉を和ませる「わたしの名によって父に願うものはなんでも与えられるように」とも付け加えられています。

 だから「互いに愛し合いなさい」と言われます。確かに、現代社会において今よりも一層世界中の人々が「互いに愛し合う」ならば、真に平和な社会、世界になる大きな実を結ぶことになるでしょう。このイエスの言葉こそ神の人類に対する願いではないでしょうか。