2021年04月11日の聖書の言葉

復活節第二主日(神の慈しみの主日)「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

 まず初めにイエス様のご復活・顕現の箇所は、ヨハネ福音史家が本章の31節に記しているように「イエスは神の子メシアであると信じるため」、つまり"本書(ヨハネ福音書)の目的"が、イエスの顕現物語を究極目的にしていることです。また、その顕現物語に共通していることは、まさにこれこそ"神のみ業"を表す非現実的な描写と現実的な描写が的確に記され、かつ対峙して記されていることです。そのことに気づけば、イエスが弟子達を通してご自身が神の子であり、まさに復活が紛れもない事実であると伝えていることを理解できるでしょう。その情景をイエスといつも共に過ごした福音史家ヨハネが、顕現物語に認めた訳を深読すると納得できるだろう。これを前提にこの箇所を読むと先ず、イエス様が埋葬された日の翌朝早く、婦人達が墓に行った。そしてその墓には、イエスの遺体ではなくイエスご自身が婦人のそばに立って、復活していることを知らせた。その日の夕刻、またイエスは墓に来なかった弟子達のところに自ら出向いて行き「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」。この記述からも、どれほどイエスが弟子達を、否、ご自分を信じる者達を愛しておられるかを察することができます。さらに彼らに息を吹き「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される」と言われます。ご自分を見捨てた弟子たちに対して、このような言葉を普通の人は言えないですね。これこそ"信じられない"ことではないでしょうか。信頼していた者から裏切られ、無視され、罵られ、挙げ句の果て見捨てられた。にもかかわらず「主よ、彼らは何も知らないのです」とまるで何もなかったかのように言語する姿勢から寵愛、否、溺愛するように、今も弟子達を通して私たちにも同じ哀れみを下さるのです。そんな折、弟子の一人トマスは「あの方の手に釘跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、私は決して信じない」といった。彼はまだ復活のイエスに出会っていなかった。そのため他の弟子達・仲間たちに対して嫉妬、疎外感、孤立を感じた。トマスは"自分も同じ裏切り者、しかし自分はまだ出会っていないし、赦されてもいない"。そんな思いが、トマスの心の中から湧き上がり、咄嗟に口から飛び出たのでしょう。それを知ったイエスは、翌週弟子たちと一緒にいたトマスの目の前に現れた。トマスは期待していたものの、"まさか"の"信じられない"ことの現実に驚愕と同時に、イエスの人知を遥かに超えた愛の深さに衝撃とも言える畏敬を感じたのでしょう。そこでトマスは慌てふためき、イエスに対して嘘偽りのない真の言葉「私の主、私の神よ」と、心の底から発した"叫び"だったのでしょう。このトマスに見せたイエスの同じ愛は、今日も私たちにも現して下さっていることを"あなたは信じていますか"。