今日の福音は、イエス様が十字架上で大声で叫ばれた最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。そのあと神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、百人隊長はイエスが息を引き取ったのを、見て言った言葉に集約されているように思います。
どれほど酷い嘲り、羞恥を受けたにもかかわらず、それらの苦しみを甘受されました。これは普通の人では、考えられないことです。しかしそれほどイエスには、人並外れた忍耐力と頑強な身体を持っていたのでしょうか。
その忍耐を持った源泉は、イエスが毎日朝に夕に神との関わり、交わりの祈りの賜物からではないでしょうか。その祈りの中で神の言葉とご自身の五感が呼び覚まされて、このような酷い迫害に対しても、潰されることがなかったのでしょう。つまり、祈りの中で神との交わりによって耐える力を、五感を通して受けていたと思われます。
「必ず、神が救いに来てくださるから、ご自身はそれらを嘲り、迫害と思わなかった」否、むしろこれらこそすべての人類の救いのしるしであって、苦しければ苦しいほど神の救いの計画、神のみ旨を確実なものとして見ていたのではないでしょうか。イエスは朝に夕に神との交わりにおいて力を受け、苦しみの中で神の計画を見ることによって、ご自身の使命を全うされたのです。私たちの永遠の命への道を確かなものにされたのです。
イエスの歩まれた道は、これほど大変厳しいものなのだと改めて考えさせられます。しかし、イエスはその道を優しく丁寧に準備し与えてくださるのです。つまり、私たちはただそのイエスの道を、歩ませて戴くだけで永遠の命へ導かれるのです。そのことを改めて知らされるとき、心底から踊るような喜びと感謝の気持ちが湧き上がってくるでしょう。
エルサレムに来た幾人かのギリシヤ人、彼らがフィリポのところへ来てイエスに会いたいと懇願したので、フィリポはアンデレにそのことを伝え、この二人がイエスに彼らのことを話した。そこでイエスは彼らにご自身が神から受けた使命を話されます。その使命をイエスは「一粒の麦」で語られました。
麦の粒、確かに粒のままだと生涯一粒のままですね。地に落ちて死ななければと言いますが、地に落ちて腐って無くなるとは言っていません。当時の人々は、麦の粒、種など地に蒔く事によって、粒・種としての形状は無くなりますが、粒が、種が、その殻が弾けて新しい芽がでることを粒・種に死んで新たな命に誕生することを「地に落ちて死ぬ」と理解していたのです。つまり、麦の粒・種に死んで復活することを示唆しているのです。
ところが後生大事に粒に、種にこだわり続けるなら一粒のままであると言われるのです。多くの実を結ぶために「私に従いなさい」とイエスが言われたのを知って、彼の元へ異邦人が話を聞くために来ました。これこそ神がその"時"を知らせてくれたのです。神を求める人は多い、その人々のために今、その決意を新たにされたのではないでしょうか。
一粒の麦、誰にでもある自己愛、執着、こだわり、習慣などお持ちの方は多いでしょう。その殻を破るには、勇気が必要ですが、チャンス・時は必ずあります。ただ必ず、大なり小なり痛みが伴うかもしれません。しかし、その殻から抜け出た時、きっと新たな世界が広がるでしょう。
イエス様は、ファリサイ派のユダヤ人たちの議員であったニコデモに話していますが、その言葉は、ニコデモ一人にではなく共同体に向けて話されています。ここでイエスはご自身のことを「人の子」、「独り子」、「光」と話されます。あの神殿での怒りの源、私の言葉と行いを真摯に受け止めて欲しいと願うイエスの真の姿とシンボルです。人の子を信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得る為に、神が独り子を与えられました。その独り子は世を裁くためではなく、世を救うために来られました。その神の子のしるしである光に向かって歩むこと、そのことを教える為でした。今も昔も私たち人間は、神に背を向ける時、その光を見る事がないと言います。その原因は、その人が神よりも偉くなっているから、何か悪いことをしたから、後ろめたい気持ちを持っているから光の方に向けなくて背を向けるからなのです。何故なら明るみに出されると都合が悪いからでしょう。しかし、神の言う真理に基づいていれば、自ずと光の方を向く、否、自然と導かれるのです。「信じない者」ではなく、「信じる者」になれば、もっとこの世の中気楽に生きられるのではないでしょうか。
自分の都合、自分の思い通り、自分の損得だけを優先するから、いつまで経っても息苦しくなるのではないですか。この四旬節、素直な自分を取り戻し、再び新たな自分になって、全てを神に委ねる事ができるようになりたいですね。
イエス様が憤り、神殿の境内で商売をしていた人々の店を滅茶苦茶にした。映画「パッション」でこの箇所のシーンは、見た者に強烈な印象を与えました。
この箇所をよく読むと、ヨハネの福音とマタイ、マルコ、ルカの福音に少し相違があることに気づきます。そこから今日の福音でイエス様の怒りの理由が、観えてきます。「わたしの父の家を商売の家とするな」に対してマタイ、マルコ、ルカでは「わたしの家は祈りの家」といいます。また「神殿を壊してみよ。3日で建て直す」この言葉は、ヨハネ福音だけです。さらに境内で売られた羊や牛もヨハネ福音だけです。もう一つ、ヨハネ福音書の神殿の出来事は、イエス様の宣教の序盤に置かれていることです。
これらから推察すると①先ず生贄となる生き物や神殿税は、特別なものを必要としていたので巡礼者への便宜を図る目的で商売が始まった。②ところが場所が神殿、そこに何らかの利権が発生し、様々な不正行為が行われていた為に、この出来事が起こった。「商売の家にするな!」とは、その為でした。③またしるしを求めるユダヤ人に対して「3日で建て直す」と言ったイエスの言葉には、ご自身が生きる生贄となることを示唆した言葉といわれます。そのしるしの先駆けとして、他の福音書にはない神殿で売られていた羊と牛を付加したと学者は言う。聖書の中でこれ程憤られるイエス様の姿は見られないのです。つまり、イエス様はご自身の言動すべて誠心誠意、命を懸けて届けているから、真摯にすべてを受け止めて欲しいと願っているのです。「エルサレムを思わず、最上の喜びとしないなら、私は口がきけなくなった方が良い。」(詩篇137・6)