エルサレムに来た幾人かのギリシヤ人、彼らがフィリポのところへ来てイエスに会いたいと懇願したので、フィリポはアンデレにそのことを伝え、この二人がイエスに彼らのことを話した。そこでイエスは彼らにご自身が神から受けた使命を話されます。その使命をイエスは「一粒の麦」で語られました。
麦の粒、確かに粒のままだと生涯一粒のままですね。地に落ちて死ななければと言いますが、地に落ちて腐って無くなるとは言っていません。当時の人々は、麦の粒、種など地に蒔く事によって、粒・種としての形状は無くなりますが、粒が、種が、その殻が弾けて新しい芽がでることを粒・種に死んで新たな命に誕生することを「地に落ちて死ぬ」と理解していたのです。つまり、麦の粒・種に死んで復活することを示唆しているのです。
ところが後生大事に粒に、種にこだわり続けるなら一粒のままであると言われるのです。多くの実を結ぶために「私に従いなさい」とイエスが言われたのを知って、彼の元へ異邦人が話を聞くために来ました。これこそ神がその"時"を知らせてくれたのです。神を求める人は多い、その人々のために今、その決意を新たにされたのではないでしょうか。
一粒の麦、誰にでもある自己愛、執着、こだわり、習慣などお持ちの方は多いでしょう。その殻を破るには、勇気が必要ですが、チャンス・時は必ずあります。ただ必ず、大なり小なり痛みが伴うかもしれません。しかし、その殻から抜け出た時、きっと新たな世界が広がるでしょう。