2021年02月07日の聖書の言葉

一緒に近くのほかの町や村に行こう...わたしはそのために出て来たのである(マルコ1・38)

イエスの始められた宣教は、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ということである。それから直ぐだったのか、何日か経ってからか定かではないが、シモン、アンデレ、ヤコブとヨハネをガリラヤ湖畔で弟子とした。その弟子たちを率いカファルナウムの会堂へ行き、彼らの目の前で悪霊を追い出した。そしてまた別の会堂へ行く途中、シモンの姑が病気ということでイエスは、急遽シモンの姑の家に行く。この間の時間の隔たりもいか程なのか、また定かではない。定かではないが、時間の間隔が読めないほど、イエスは宣教の為、人々への癒しを精力的に実践していたことが窺える。またイエスの癒しは、非常に具体的で相手を丸ごと包み込むように癒される。癒し方としては最高のやり方である。相手から緊張感を解き、安心感を与えるからだ。(現代の医者も見習って欲しい。) また、日没と共に仕事は終わらない。イエスを求め集まった大勢の人々へ嫌な顔一つせず、精力的に働き続ける。しかし、翌朝イエスは一人祈った後、更に人々がイエスを探し求めていることを知り、別の場所へ宣教のため立ち去った。今日の箇所からシモン(ペトロ)は、妻帯者であることがわかる。つまり弟子たちには、妻帯していたものも居たということ。またイエスの"癒し"は、求める相手を拒まず徹頭徹尾与え尽くす、そして同じ場所に居続けるのではなく、常に場所を移しながら貧しい人や困っている人々のために出向いて行くのである。このイエスの宣教姿勢は、現代の宣教師たちに大切なことを伝えている。