そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
「心が鈍くならないように注意しなさい」とイエスは警告されました。「放縦」(何の規律もなく勝手にしたいことをすること)や「深酒」に陥ることはない自信のある人でも、イエスが最後に挙げられた「生活の煩い」に翻弄されることはないと言い切れる人は少ないのではないでしょうか。
イエス・キリストは、虐げられた人を訪ね、友なき者の友となり、忙しい日々を過ごされましたが、同時に、人里離れた場所で一人静かに祈る時間を大切にされたことが聖書に記されています。私たちもイエスのご生涯をお手本として、イエスに倣って、心が鈍くならないように注意しながら生きていくことができますように。
祈りましょう。
天に昇られたイエスは、世の終わりに生者と死者を裁くために再び来られると約束されました。同時に、今も社会の中で、飢えている・渇いている・宿る場所がない・着るものがない・病んでいる・牢に閉じ込められている人と共にいる(マタイ福音書25章)ことを教えてくださいました。
わたしたちが「目を覚まして」、イエスとの出会いを求めて歩んでいくことができますように。忍耐強く私たちの回心を待っておられる神の愛に心を向けて、救い主を迎える心の準備をすることができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:エレミヤ33・14-16)・(第二朗読:1テサロニケ3・12-4・2)
そのとき、ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
教会の暦では「王であるキリストの祭日」が年間最後の主日です。来週の待降節第1主日から新しい1年がスタートします。
「真理」について。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とイエスは言われました。「真理」と訳される語は、原文のギリシア語で「アレテイア」(何も隠されていないこと)、ラテン語で「エメト」(確かなもの、不変性)を表す言葉です。
ヨハネ福音書には「真理」という言葉が度々登場します。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)。「わたしは道であり、真理であり命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)
ローマ総督ピラトはイエスに「真理とは何か」と問いました。この問いは大きな問いであり、人類が問い続け、正しい答えを見つけることが難しいものでした。
父なる神は御独り子を世に送り、この問いに応えてくださいました。イエス・キリストこそが真理であり、この方の言葉に留まり、この方に繋がって、この方を道として歩み、この方の命を生きることが真理であることを教えてくださいました。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1・17-18)
イエス・キリストがそのご生涯を通して示して下さった「真理」とは、特にヨハネ福音書に繰り返し記されている「神は愛である」ということです。
「王であるキリスト」の祭日に当たり祈ります。
終末における愛の完成を信じて、いま私たちにできることをなす勇気を与えてください。イエス・キリストのご生涯に倣って、愛の行いを成すことができますように。アーメン。
参考:(第一朗読:ダニエル7・13-14)・(第二朗読:黙示録1・5-8)
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」
本日の聖書は、世の終わりの救いの完成に目を向ける内容となっています。
ガリラヤの田舎からエルサレムの都に上り豪華な神殿を見た弟子たちは「なんとすばらしい建物でしょう」(マルコ13・1)と感嘆の声を挙げました。そのような弟子たちに対してイエスは、神殿のすべての石が崩れ去り滅びていくと語りました。
ここでは、世の終わりのしるしとして、「いちじくの木の教え」が述べられていることに注目したいと思います。
「世の終わり」と聞いて、皆さんはどのような情景が思い浮かぶのでしょうか? 「恐ろしい裁きの時」や「人生の終末」と重ねて「枝が枯れる、葉が落ちる、秋から冬を迎える」イメージでとらえる人が多いのかもしれません。しかし、イエスは、「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる・・天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と、いちじくの木の伸びゆくさまを例に挙げて、世の終わりとは、主の御旨が全世界に行き渡り実現される喜びの日であることを教えてくださったのです。
わたしたちは使徒信条でイエス・キリストが「生者と死者を裁くために来られます」と唱えます。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14・3)とイエスは約束されました。その時がいつなのか分かりませんが、必ずキリストの再臨があることをキリスト者は信じています。
祈りましょう。
死は終わりではなく新しい始まりであることを私たちは知っています。同じように、世の終わりは新しい始まりであり、主の御許に上げられる喜びの日であることを信じています。
善き準備をして善き日を迎えることができますように。アーメン。
参考:(第一朗読:ダニエル12・1-3)・(第二朗読:ヘブライ10・11-14、18)
そのとき、イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
この女性の献金額は現在の金額に換算すると百円程度だったようです。イエスが「だれよりもたくさん入れた」と言われたのは、量ではなく質を指してのものでした。「持っているものをすべて」という表現は、天の国を譬えた「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13・46)と同じものです。
この女性は「天の国を心から祈り求めて生きている人である」とイエスは言われたのです。
*やもめ(寡婦)とは、当時の男性中心社会の中で自分を守る夫を失った人であり、孤児、寄留の民(周囲に自分を守ってくれる同胞のいない外国人)と並ぶ社会的弱者の代表でした。
*パレスチナ、イスラエルに平和がもたらされますように。
神はモーセを遣わして、エジプトでの奴隷生活からユダヤ人を解放してくださいました。そして「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(出エジプト23・9)とお命じになりました。寄留者として苦難の道を歩んできたパレスチナとイスラエルの民は、どの民族よりも寄留者の辛さを知っている人たちです。
祈りましょう。
両民族間の対立の根底に土地の奪い合いがあり、合意点を見つけることが困難な状況にあることはわかっています。それでも、同じ神を崇拝し共通の聖典を持つ兄弟です。どうか対立ではなく、政治・宗教の指導者たちが和解の道を探り、和平実現を最優先に歩んでいくことができますように。アーメン。
参考:(第一朗読:列王記上17・10-16)・(第二朗読:ヘブライ9・24-28)
そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
一人の律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一に大切ですか?」とイエスに問いました。イエスは旧約聖書の「申命記」と「レビ記」から一つずつ掟を挙げて、「この二つに、まさる掟はほかにない」と応えられました。
「申命記」(申:再び、命:律法)は、約束の地に到着する直前にモーセが遺した言葉であり、ユダヤ人が毎日の祈りの中で唱える信仰告白の言葉です。「聞け、イスラエルよ(=シェマー、イスラエル)」から始まる祈りで、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6章4-5節)と続きます。「レビ記」には「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(19章18節)と記されています。
マタイ福音書では「第二も、これと同じように重要である」(22章39節)と記されています。「同じように」のギリシア語原文は「ホモイア=似ている」という単語が使われています。したがって、「重要度が似ている」という解釈以外に、「二つの掟の内容が似ている」と捉えることもできるのです。
つまり「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことが同じことだと考えることができるのではないでしょうか。
そう考えると「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5・14)や「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」(ヤコブ2・8)がしっくりきますし、最後の晩餐の席でイエスが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)と弟子たちに話されたことが腑に落ちるのではないでしょうか。
目に見えない神を愛することが難しく感じられるときは、目に見える隣人を愛することで、すべてが全うされることを教えてくださっているのです。
参考:(第一朗読:申命記6・2-6)・(第二朗読:ヘブライ7・23-28)